〈回顧録〉母と絶縁するまでの人生(~29歳)
子どもの頃から「男を見たら襲われると思え」的に聞かされたため、恋愛をすること自体がすごく悪いことのように思えてしまいました。
母の「他人を引きずり下ろしたい」という願望に、自ら沿ってしまっていました。
両親不仲で考え方が違いすぎることによる弊害。高校生になってもなお、苦しみました。
親から互いの悪口を聞かされるととても傷つくのは、どちらとも血がつながってしまっている自分を否定することでもあるから。
自分の長所と思われるところを「長所」として扱ってくれる場所(あるいは、自分では短所だと思っているところが、実はありがたがられる環境)を選ぶことは、本当に大切なことだと実感した話。
「うちの娘は〇〇高校よ」なんてわざわざ言わなくても、学校名がわかる特徴的な制服は、母の大のお気に入りでした。
母からすれば「娘のため」のつもりだったのでしょうが、同級生や塾の先生に侮辱的な言葉を発するのが嫌でたまらなかったという話
自分の存在価値が危うくなり、その結果周囲の人を傷つけてしまっていました。
高校受験を控えた中学3年の2学期は生きた心地がしなかった。
過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。本記事は、模試や資格試験の前に不安になっていると、母がカ…
怒りをかうので言えなかったけれど、イヤなものは「嫌」「やめてほしい」と伝えるべきだったかもしれない。
母の味方をしないと「あんたもひどい目に遭うんだから」と呪いをかける母。「あんたのためにこんなにしてやった」と言うわりに、娘が不幸になるのを望んでいるのでは、と思うことがありました。
母が執拗に父に嫌がらせをしているのが辛かった話。 そんなに嫌なら離婚すればよいのに、離婚はプライドが許さない母なのでした。
何か不幸が降りかかったとして、それ自体はコントロールできないけれども、どういう態度をとるかは自分で選べるのだということを忘れないようにしたいと思います。
「なんとなく感じた」ことはけっこう当たっているので自分の感じ方を信じてよい(ただし被害妄想的にはならないよう注意)という話
思っていることは、想像以上に伝わってしまう(ことがある)ので、日頃から自分のことも人のことも、「OK」を出せる(せめて否定しない)状態でありたい、という話。
「あなたは良いんだけど、お母さんがね」という言葉には、そのままの意味とそれ以上の意味を含んでいました。正しいことではありましたが、中学生当時の私にはとてもショックでした。
クラス替えで「1組」や、学年主任の先生のクラスにならないと母の機嫌が悪かった話です。
母の機嫌をとるべく、体育でも良い成績がとりたかった私は、休むべきときにプールに入ってしまい、恥をかいた(&迷惑もかけた)話です。
「娘が女性として成長していくのを喜んでいない」ということ、母は口には出しませんでしたが、私は確実に感じ取っていました。
通知表の先生からのコメントを過剰に気にする母にうんざり。しかしスルーできず、ますます自分を追い込んでしまいました。
くだらないマウントをとるような人間の言いなりになってしまったことはとても愚かなことだった、と反省しています。
「内申点」を気にして、「いい子」でいつづけねばならなかった中学校時代、とてもきつかった。
小学校の卒業式で言わされた「親への感謝」。どうしても言いたくないのは反抗心と思っていたけど、すでに母のことが嫌いだったのだと今になって思う。
学歴コンプレックスの強かった母に、中学受験用の塾に通わされたものの、だたひたすら自信を失っただけでした。
「同級生に負けない」ために、さほど興味もない習い事をしていたこと、遊ぶ時間がなくてつらかった、という話です。
私が何か主張しようとすると「娘がおかしくなった」と親戚 に電話して味方につける母のやり方は卑怯でした。
母の態度によって「私は誰にも受け止めてもらえない」という観念を強固に身につけてしまったことは、その後の人生をつらくさせました。
「ずれている人」の意見を参考にしていると、結果的に自分自身が「ずれている人」と見なされてしまう
自身の金銭管理能力のなさを棚に上げて「あんたのせい」と言うのは理不尽でした。