ししもとのAC回復ノート

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

ブログ整備中につき、一時的に非表示にしている記事がございます。少しずつ再更新してまいりますので、またご訪問いただけますと幸いです

【AC回顧録・中学生(反省含む)】自己肯定感の低さから目を逸らして周囲の人を傷つけてしまっていた


過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。


これは私自身が反省すべきところなのですが、家庭でのストレスを無意識のうちに学校などで発散してしまっていたのだと思います(当時は完全に無意識だったのですが)。

何かがバタバタと音を立てて倒れるように、学校でも塾でも、あちこちで人間関係がうまくいかなくなってしまいました。

当時は私自身も被害者意識でいっぱいだったのですが、今思うと、私に大いに問題があったのだろうと思います。

母から浴びた毒が許容量を超えていて、私の心が腐り、その腐敗臭で周囲の人を不快にさせていたのだと思います。

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人間関係がことごとくダメになる

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高校受験を前に、家庭内不和や、母がプレッシャーをかけてくることもあり、不安がつのっていきました。
時を同じくして、人間関係がことごとくうまくいかなくなり始めました。

まず、親しいと思っていたクラスメイトから無視されるようになってしまいました。

続いて、取り巻き、というのでしょうか、その子の味方をする子も出てきました(単に揉めているのを面白がっていた子もいたと思いますが)。

それ以外の子たちも、どちらかというと先方の味方をしていたように感じました。
なぜかというと、私が話しかけにいくと、ちょっと困ったような表情をしていましたから。

その結果、一時期はかなり「クラスから浮いている」状況だったと思います。

体育の授業の「二人一組」系のやつで、誰も組む人がいないとか、バスケットボールで、私がパスしても誰も受け取ってくれないということもありました。

登校拒否になってもおかしくないレベルだったと思いますが、そんなのは母が許さないことはわかりきっています。

私自身も「いい高校に入らなければ死ぬという呪い」にかかっていたので、「いま休んだら内申点に響く」とゾンビのような気分で登校していました。

幸い、男子学生の態度は普通でしたし、話を聞いてくれる子もいた(今思うと感謝でしかない)ので、なんとか脱落せずに済みました。

無意識のうちに周囲の人を傷つけていたのだと思う

その当時は、すごくすごくショックで、被害者意識でいっぱいでした。

かなしくて、孤独感でいっぱいで、でもそれを見せられない。
とにかく”味方”がほしくてほしくて、「あーあ、ほかの中学に転校したい」とかしょっちゅう思っていました。

でも、今振り返って考えてみると、私自身にも大いに原因があったのだろうと反省します。

「優秀でない私には生きる価値がない」という切迫感から、他のクラスメイトのことを「なんで60点程度で気楽に生きていられるんだろう?? 私なら60点じゃ自殺してお詫びするレベルなのに」と本気の本気で思ってしまっていました。

そうやって、クラスメイトを小馬鹿にしているようで、実はかなりうらやましくて嫉妬してもいたのです。

「私は90点でも怒られるのに、なんであの子は60点程度でも親に怒られないの? 〇〇ちゃんの親は、どうしてうちのお母さんみたいに怒り狂わないんだろう」と。

まあ、今思うとうちの母がおかしかったのですが、「母がおかしい」ことを直視できず、ねじまげて原因を追究してしまいました。

「私は100点をとらないと、存在価値がないのに、あの子は60点でものびのびと生きていられる。ということは、生まれ持った存在価値としては、あの子のほうが高いってこと?」

つまり「私は100点をとってやっと、他の子たちと同じ価値になるんだ……」ということです。

ここまでしっかりとは言語化できてはいなかったのですが、無意識下でそう捉えていました。

つまるところ、自己肯定感が皆無どころかマイナスだったわけです。

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【この体験から思うこと】

自己肯定感の低さや、自分の傷つきを見て見ぬフリをしていると、悪気なく周囲の人を傷つけてしまうのだな、と実感しています。

傷は、見なくても、あるからです。

見なくても、見えていなくても、傷むのです。

だからつい、「痛い」と言ってしまうのです。
周囲の人に「助けて」と言いたいのです。

でも、自分自身でどんな傷か、深さとか形とか(=原因)を見ていないので、素直に「こういう理由で傷ついている、助けてほしい」と言えないのです。

で、言えないと、察してほしくなるわけですね。

けれど、周囲の人々にも、それぞれの人生や苦労がありますから、都合よく動いてくれるわけがありません(本来ならば親がやるべきことですしね)。
それもなんとなくわかっているのですよね。

だから、ねじ曲がった形で、痛みを発露してしまうのですよね。
人を見下したり、文句をつけたり。あるいは自分を傷つけたり。

相手を傷つけたくてやっているというよりは、気づいてほしいのですよね、苦しみに。

でも、実際にやってしまっていることは、相手への攻撃だったりするので。
関係性はよくなるどころか、かつての私のように孤立してしまうわけで。

だとすると、「自分で自分の傷を認める」ことがとてもとても大事になるのだと、今は実感しています。

これがまた一筋縄ではいかず、非常に根気の要る作業なのですが(私も10年かかりました)。

難しいからといって放置していたら、一生「私の傷を癒してくれ」と人に絡んで、でも満たされなくて……というのを繰り返してしまうのだと思います。

いずれにしても大変で、どちらの大変さを選ぶかという感じですかね。

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