〈回顧録〉母と絶縁するまでの人生(~29歳)
母への嫌悪感に気づいてから絶縁にいたるまでの心の動きや出来事の一覧です。
「私はどういう経緯で絶縁に至ったか」という実体験の記事一覧です。
知人の子供に猛烈な怒りを覚えてしまい、「私、産んだらやる人だ」と認識しました。
母にとっての私は「所有物」に過ぎず、母から認められることも愛されることも一生ない、ということをやっと実感できた日のこと。
足をひきずる母に対して「わざとやっている」と怒りがこみ上げるようになってしまいました。
認知症でもないのに、夜中はトイレに行かずに部屋でバケツに排泄(いわゆるションペット的なやつ)をするようになった母への嫌悪感。
不本意な私のままで死んだら絶対に後悔する、と思いました。
「お母さんの言うこと、聞く必要、ある?」。その場では反発する気持ちでしたが、今になってみると「あれは本質を突いていたな」と思います。
常に人に迎合してしまう。それがもう癖になっている。一旦すべてを断たないとやり直せないと思いました。でも、なかなかできませんでした。
全力で転院を拒否したのに、しばらく後になって「あーあ、リハビリ病院、行っておけばよかったわあ」と母。
リハビリ病院を老人施設と勘違いした母が病院で大騒ぎした話。実の親ながら「まじでなんなん、こいつ」と思いました。
この経験によって、「お金を貸すと死ぬほどきつい」ということは身をもって体験したので、今後誰かに頼まれたとしても毅然と断れる自信はできました。
親にお金を貸すことは自分でも納得していないし嫌だったけれど、それを「何やってるんだ」と責められることは、本当に悲しくて仕方がなかった。
伯母にもお金を貸すのがつらい
自分が使うお金はほとんどないのに、親のために死ぬ思いをして働いている。 これがもう、やるせなくてやるせなくて。
人間関係の悩みにつながってしまうような反応の仕方は、子ども時代の私が、生き延びるためにやってきたことでした。 それが大人になってもなお抜けず、むしろ固化されてしまったことが問題でした。
娘が幸せになることを願っているのではなくて、母自身が「恥をかきたくない」とか「周囲から馬鹿にされたくない」でいっぱいの人でした。
母の期待にこたえ、良い学校を出て、いい会社に入りました。 しかし母はそれで満足することはなく、今度は「娘が独身」であることを恥ずかしがりだしました。
せっかく実家を出られたのに、心は親と距離をとれていませんでした。
精神症状が出ている時はさっさと逃げていいんだな、というかむしろ逃げたほうがいいと正直今は思っています。
病気を避けることの大元には「体調を崩したら親に見捨てられる」という恐怖感があったと思います。
食事が摂れないことや、休日ひきこもっていることなどを指摘されるのが苦痛で一人になりたくてなりたくて、仕方がありませんでした。
会社に派遣されてきたカウンセラーさんと話が合わず、ますます「誰もわかってくれない」を深めてしまいました。
恐怖症で食事がのどを通らなくなり。そのことを強く指摘されてますます悪化してしまいました。
「外の世界=汚染されている」と思うようになってしまい、外出がこわくてたまらず、できるだけ避けるようになっていきました。
頑張っているはずなのにうまくいかないとき、それはそもそもの方向ややり方が間違っているのかもしれません。
嫌いな人を引き寄せないためには、自分のほうが変わらないといけないんだな、と(もちろん、すべてを避けられるわけでもないですが)過去を振り返っていて思うのでした。
部下になめられて仕事の指示が通らないので、「よかれと思って」やったことが自分の首を絞めました。
人目を気にしてヘコヘコしたり自虐していたので、部下にもなめられてしまい、なかなか仕事の指示が通らず苦労しました。
親にしていたご機嫌取りを外でもやってしまい、結果的に自分の首をしめました