ししもとのAC回復ノート

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

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〈AC回顧録・29歳〉堪忍袋の緒が切れた日のこと:「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかった【絶縁を決意】

母への嫌悪感に気づいてから絶縁に至るまでの出来事を見つめなおしています。>>>記事一覧)。

母との絶縁を決意した日の出来事。
母にとっての私は「所有物」に過ぎず、母から認められることも愛されることも一生ない、ということをやっと実感できました。

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「生んでよかった」と、少しでも思ってほしかった

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「あんたを生んだせいでお母さんはこんなに太った」
「あんたが小さいころ公園で遊ばせてやったからこんなにシミができた」
「あんたを生んだせいでお母さんはこんなに大変な思いをしてる」
という母の言葉。

母は家事育児能力がゼロ(おそらくなんらかの障害あり)でしたから、実際、本当に苦痛で大変だったのだろうと思います。

でも、素直な子どもだった私のなかに、母の言葉一つ一つが罪悪感として積もっていきました。

生まれてきてしまった申し訳なさをかき消したくて、「私が頑張ることで、少しでも親に幸せになってほしい」と思って、子どものころから生きてきました。

近所の人からのいい評判を得られるように。
学校の先生に気に入られるように。
勉強で結果を出したり、何か賞をもらったり。
それなりに「いい学校」を出て、「いい会社」にも入りました。

少しでも「あんたを生んでよかった」と思ってほしかったから。

しかし、なかなか母を満たすことはできませんでした。

「次こそは、次こそは」と我慢して努力しているうちに、私の人生は行き詰まりを見せるようになってきました。
水中で生きるべき魚が、口をぱくぱくさせながら陸を歩いているようなものでした。
いつも息が苦しくて、心身に不調が現れるのは当然だったと思います。

「でも。それでも」
と思って、頑張り続けていました。

私自身が親に認められたい気持ちももちろん大きかったのですが、やっぱり「生んでよかった」と思ってほしかった。
少しでも幸せになってほしかった。

そんな私の堪忍袋の緒が完全に切れたのは、お正月休みに実家に帰っていたときのことでした。

届いた年賀状を見ていた母が……

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人様にマウントを取るのが生きがいの母にとって、年賀状はとても大事なものだったようです。

私が良い学校や会社に入ったときなどは「娘が〇〇に入りました!」と自慢し。
逆に、相手の方から「うちは△△大学です」などと返ってくれば、ハンカチをかみしめるような勢いで「チッ、自慢してきやがって、いまいましい」と腹を立てていました(自分だってさんざんやっているのに)。

「娘がいい会社に就職した自慢」も尽きたころ、母の元には「孫が生まれました」系の年賀状が届くようになりました。

「あんたの同級生の〇〇君のところも子ども生まれたって。△△さんのとこも」といつもの嘆きタイムが始まったと思ったら。

母は年賀状からふと顔を上げて私を見すえ、泣き出しそうなトーンでこう言いました。

「あーあ、お母さんだけ孫がいなくてかわいそう」

思わずギョッとしてしまった私に、さらにこうたたみかけました。

「あんたが無駄に高学歴になったのがいけないのよ。そこらへんの女子大行って、インカレサークルにでも入って、結婚相手見つけたらよかったのに」
と。

このとき私の中で「プツッ」という音がしました。
比喩じゃなくて、本当に「プツッ」と音がしたのです。

「堪忍袋の緒が切れる」とは言うものの、あくまで例えだと思っていましたが……本当に何かが切れたような音がしたのには自分でも驚きました。

そして開いた堪忍袋から沸きだす、長年の怒り。

テストの成績が一番じゃないと夜中まで責め立ててきたのはお母さんじゃないか……
「そこらへんの女子大」なら別に1番にならなくても入れたじゃないか……。
なのに、どうして私は1番でないと許してもらえなかったのよ?

声に出して母に聞くまでもなく、答えは明らかでした。
母は周囲にマウントをとるためだけに、私を頑張らせてきたのだ、と。

母にとって私は「マウントをとるためのアイテム」なのだ、と。
ブランドもののバッグなどと同列なのだ、と。

だからこそ「孫がいなくて恥ずかしい(=ブランドの新作が手に入っていないのが不満)」などと言われているのだ、と。

勉強や仕事ならまだ、自分次第である程度はなんとかなる部分もありますが、結婚は相手のあることなので、私一人が頑張ったところでどうにもならない(しかも、結局は母が気に入る相手でないと阻止される)。

ついこないだまで、「今妊娠したらあんたの人生終わるんだからね」と脅してきたくせに、就職したとたんに「さあ産め!!!!!今すぐ産め!!!私だけ孫がいないのは許せないからすぐ産め!」と言われても……そんなに急には切り替えられませんよ。。。

そもそも両親の不仲や母との関係で苦しんだからこそ、子どもを欲しいと思えないのに…。元凶であるおまえが言うか、と。

どうしようもない徒労感に、一言も出ませんでした。

私とという人間の「底」みたいなものが、すっぽり抜け、中身がざあざあと落ちていくような気がしました。

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「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかった

私のこれまでの人生って、なんだったのだろう。

空しくて虚しくて、言葉では表せないほど、やるせなかった。

「少しでも親に幸せになってほしい」と思って頑張ってきたこと、全部意味がなかった。

どれだけ私が頑張ったところで、母にとっての私は「ちょっと高級なバッグ」程度に過ぎなかったのです。

だから、期待に応えれば応えるほど、「次はもっといいバッグでお願いね」となる。

各種精神症状に耐え(>>>外出がこわい食べられない不潔・疾病恐怖で常に膀胱炎皮膚むしり症、仕事をこなし、母の入院に付き添ったり、家に15万以上入れ、できる限りのことはしていました。
もう、限界でした。

そんな限界状態なのに、知らん顔どころかよりいっそう追い詰めてくるのは、母にとって私は「モノ」だからだ、と。

そもそもの出発点として、娘は所有物であり、ひとりの人間であることを認識できていないのだ、と。

怒りよりも悲しみよりも呆れというか……「心がない人(※)から生まれてきてしまったのか」ということに呆然としてしまいました。

(※ おそらく母に悪気はなく、今思えばなんらかの障害を抱えていたのだと思いますが、その当時は発達障害の情報などもまだそこまで広まっておらず、私にはそう感じたのでそのまま書いています)

とてもショックな出来事でしたが、この件によって、母と絶縁する決心がつきました。

心がない人に、人の気持ちを想像しろなんて言っても、そもそも「ない」のだから無理ですもんね。

完全に叩きのめされたので、迷いもなかったです。
完膚なきまでに叩きのめしてくれたことは、ある意味、母に感謝すべきなのかもしれません。

でも、これがわかるまでに29年もかかってしまいました。

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