母への嫌悪感に気づいてから絶縁に至るまでの出来事を見つめなおしています。>>>記事一覧)。
認知症でもないのに、夜中はトイレに行かずに部屋でバケツに排泄(いわゆるションペット的なやつ)をするようになった母。
そのこと自体、セルフネグレクトの代表的な症状であり、精神科などに相談案件だったと思うのですが、本人がかたくなに認めなかったこともあり、どうにもできませんでした。
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母が部屋にバケツを持ち込むのを目撃
ふだんは会社の近くに住んでいましたが、不仲の両親が揉め事を起こさないか心配だったこと、また母は足の手術後にリハビリを拒否、ほとんど歩けないまま退院を強行した こともあり、可能な範囲で実家に帰って様子を見ていました。
すると母が、夜寝る前に風呂場でバケツを洗い、部屋に持ち込んでいることに気づきました。
「え、何でバケツ?」と聞くと「洗濯物がたまっているからこれに入れて運ぶのよ」だとかなんとか。
母は片付けられない人なので、バケツに洗濯物やらゴミやらを溜めておくくらいのことは全然あり得ました。
そこらへんに放置したまま永遠に時が過ぎるよりは、バケツにまとめてでも、出してもらうほうが助かるので、最初は「ふうん」と見逃していたのです。
ですが、毎晩、寝る前にバケツを洗って、部屋に持ち込むのです。
もしや、と思いました。
……信じたくなかったけれど。
でもある日、夜中、水の流れるような音でふと目が覚めました。
母の部屋と私の部屋はふすまで区切られているだけなので、音はほぼ普通に聞こえるのです。
親とはいえ、さすがにのぞくのは躊躇してやめましたが……あきらかにバケツに用を足している音でした。
その音を聞きながら、不快感、吐き気、言いようのない怒り、徒労感、などがこみあげてきて、頭が破裂しそうでした。
「そこでトイレしてるでしょ! やめて!」
と思わず隣の部屋から叫びました。
普通なら現場をおさえられて観念する場面だと思いますが、
「違う、これは水の音、水こぼしたのよ」
などと言うのです、引き続きジョロジョロと音を立てながら。
そう、母は昔から明らかなミスをしても絶対に謝れない人でした。
若いときですらそうなのだから、歳をとれば余計にそうなります。
昼間に改めて話をしても、
「そんなこと(部屋で排泄)、ゼッタイにやってない!やるわけないじゃないっ!」と、全く認めませんでした(何日か様子を見ていましたが、毎日やっていました。)。
伯母に相談し、伯母から母に言ってもらったものの、やはり「やってない」の一点張りで埒があかず。
こういった頑なさというか、話があまりにも通じないというか、心の通わなさというか……
何度も味わってきましたが……
もうほぼ限界でした。
今思えば、母には発達障害や精神疾患があったのだと思いますが、当時はそういった知識もあまり一般にはなく、何よりも母自身が、精神科に偏見のある人でした。
「精神科」の単語を出しただけで「失礼な!」とものすごく怒り狂うような人だったので……
父に言っても大喧嘩になるだけだし。
解決策がまったくなく、もう、本当に限界でした。
嫌悪感がすさまじかった
たしかに、母は足の手術後に転院を拒否、ほとんど歩けないまま退院を強行したので、トイレまで行くのが億劫だったのでしょう。
けれど、昼間はトイレまで行っていたので、物理的に移動が不可能なわけではありません。
百歩譲って、足が悪いせいだとしても、それならばなおさら、ちゃんとリハビリをしてもらいたいところです。
しかし、リハビリを断固拒否(入院先で「ここから飛び降りて死ぬんだから!」と大騒ぎする母 )、「自分で何でもできるから退院します」と言ったのは母本人なのです。
だから、私からすれば、母の自業自得にしか思えませんでした。
しかも、私自身が不潔・疾病恐怖に悩んでいましたから、「寝たきりでもないのに部屋で用を足す」ということ自体、生理的に受け入れられませんでした。
いえ、元々、きちんとしている人なら「なにか事情があるのだな」と少しは思えたでしょう。
けれど、子どもの頃から母と同室の汚部屋に苦しんできたこと、ハエとゴキブリにまみれ、何か月も風呂に入れなかったこと、いつもお腹を壊さないか心配していたこと、そういった、「不潔に対する嫌悪感」が溜まりに溜まっていました。
また、明らかなミスをしても絶対に認めず、むしろ怒りだすような性質にも辟易していました。
だから
またか!!!!!!!
という強い怒りの感情に支配されてしまいました。
ああ、もう、ほんとうに無理だ
母への嫌悪感は、長年つのりに募っていましたが、この「部屋で排泄」は、私にとっては我慢のレベルを越えていました。
いわゆる「生理的に無理」のレベルMAXというか……。
悪い意味での鳥肌が立ってしまい、同時に怒りも凄まじかった。
仕事に忙殺され、父にお金を貸し、やっとの休みも実家につぶされ、母への嫌悪感で破裂しそうになる。
楽しいことが、本当に、本当に、一つもありませんでした。
今思うこと
あのときは本当に絶望していましたが、今思うと、ある意味、幸運だったのかもしれません。
母がここまでのヤバさをつきつけてこなかったら、私の「親に喜んでもらいたい、また、私のことを認めてもらいたい」の精神を破壊できなかったかもしれませんから。
この後、母はさらに、私を崖から突き落とすような発言をしてくれます。
それでやっと、完全に、絶縁への一歩を踏み出せました。
堪忍袋の緒が切れた日のこと:「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかった【絶縁を決意】
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