学校の先生に「あなたは良いんだけど、お母さんがね……」と言われた経験を振り返っていて、気づきがあったので、記事にしています。
「なんとなく感じた」ことはけっこう当たっているので自分の感じ方を信じてよい(ただし被害妄想的にはならないよう注意)という話です。
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なんとなく感じ取ったことは信じてもよい、と思った
思っていることは想像以上に伝わってしまう、と前の記事で書きました。
でも、日常的な、ほんのささいな場面だと、「なんとなくこう感じるけど」程度のことが多く、確信まではないですよね。
「今の言い方、なんとなく嫌な感じがしたけど……気のせいか? 私が気にしすぎなのか?」みたいな。
でも多分、「イヤな感じ」自体はそこそこ合っているんだろうなぁ、と。
だからといって、相手は私の全てを否定するつもりはなく、ごくごく一部分で意見が違うとか、単にピンときていないとか、虫の居所がわるいとか、がほとんどのケースなのでしょう。
あるいは、自分が思っていることを「相手もこう思っているにちがいない」と投影してしまうこともありますよね。
私の場合、嫌いな人に対して、「向こうも私を嫌っているに違いない」と昔はよく思いつめていました。
調子が悪いと被害妄想的になってしまって、どうしても悪く捉えすぎてしまうので、そこは注意が必要というか、意識的に冷静になることが必要だな、と思います。
「あれ? 今ちょっとひっかかる言い方したかな? 何か先方の気に障ったのかな?」の「気に障った」は当たっているかもしれませんが、だからといって「イコール私のことが嫌いなんだ」と被害妄想的になるのではなく、「ある一部分に関しては同意ではない」に過ぎない、というのは忘れないようにしたいと思います。
でないと、自分と完全一致の人以外受け付けないことになってしまいますからね。
それはつまり、同意以外は受け付けなかった母(>>>母にとって都合のいい人以外「全員敵」)と同じになってしまう……。
気をつけよう(汗)
現実を見る、ということ
ちょっと合わないところがあるとすぐに「嫌われている」と思い悩むのは尚早だとしても。
「ちょっと合わないな」「なんかイラっとする」が頻繁にあるのなら、それはもう、「気が合わない」ということなのかもしれません。
「なんか……(総合的に)あまり好かれていないような気がする……いや、でも、クラスメイトだし、仲良くしなくちゃ」とか。
「あまり大事に思われていない気がする……いや、でも、こないだ親切にしてくれたし」とか。
この、「いや、でも」が要らなかったんだよなあ、と思います、今は。
「なんか……あんまり好かれていないような気がする」のなら、好かれていないんですよね、多分!!(もしくは自分が相手をあまり好いていない)
あまり好かれていない(or あまり好いていない)とわかった上で、「それでも(表面上は)良好な関係を保ちたい」のなら、それはそれで全然よいと思うのです(むしろ健全)。
ただ、「好かれていない(or 好いていない)」ことを覚悟の上というか……。
期待しないというか。
好かれてなさそうだ(or あんまり好きじゃない)けど、でも、なんとかして好かれなくちゃ(or 好きにならなくちゃ)仲良くしなくちゃ、と合わせていると、いつか「こっちはこんなに合わせてるのに!」と猛烈な怒りがわいてしまうんですよね。
それで、「絶対的に嫌い!!」となってしまって、逆に相手を驚かせてしまったりとか。
くもりなき眼で冷静に観察するというか、現実をしっかり認識しておくことは大事だなあ、と改めて思います。
精神的に未熟な親に育てられていると、日常的に「あんたがおかしい!」と言われているので、どうしても自分のことを疑ってしまうのですよね。
今思えば、「あんたがおかしい」と言うほうがおかしいのですが。
卑屈にはならないよう気をつけつつ、自分の感じ方を信じていきたいと思います。
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