菅野仁『愛の本 他者との〈つながり〉を持て余すあなたへ』
この本の感想の続きです。
本記事の概要
何が幸福かは人によって異なるが、条件を抽出することはできる。
そのうちの1つが「自分にとってのほんとう(好きなこと、楽しいこと)」「これだ!」ということを見つけて、やり続ける、ということでした。
(前半の記事をまだお読みでない方はこちらから)
experience.shishimoto-yuima.work
このような「自己充足を得られる活動」は、もちろん自分一人でやっていてもそれなりに楽しいのですが、「他者との交流(とりわけ、他者からの承認)」とうまく結びつくことによって完結する、と著者はいいます。
私自身も、「ひとりで何かする」ことは得意なほう(むしろ他人にペースを合わせなくていいので、気楽と感じるタイプ)ですが、ひとりで過ごす時間が多くなってくるにしたがい、「他者との交流」も大事だなと思うようになりました。
では、「外に出ていこう」となるのですが、繊細な人、傷つきやすい人は、その一歩が難しかったりしますよね。
本書では、傷つきやすい人がどう他者とつながりを築いていくか、ということもポイントです。
そのあたりのテーマについて感じたことを、本記事では書いていきます。
傷つきやすさの背後にあるのは「期待過剰」
理不尽な攻撃など、明らかに相手に悪意がある場合は傷ついて当然ですが、それ以外だと、どういうときに傷つくかということを考えてみると、
「自分を受け止めてもらえなかった」
「自分のことをわかってもらえなかった」
というケースが多いのではないかと思います。
著者によれば、それは「自分のことを丸ごとわかってくれるはずだ」という期待があるからだ、といいます。
「自分のことをぜーんぶわかってくれるはずだ」というところから出発して人とつながりを作ろうとすると、相手が自分の思いどおりの理解や態度をとらなかったとき(つまり自分の期待がはずれたとき)、「どうしてぼく(私)のことをわかってくれないんだ。こんなに身近なはずなのに!」といった失望や苛立ちに襲われたりする。親子喧嘩や夫婦喧嘩の根っこには、こうした相手に対する「期待過剰」があるんじゃないかな?
P.76
私自身にもあてはまるふしがあるので、グサッとなりました……。
私自身は親に対してはすでに諦めがついているのですが、その分、友人などに対して「期待過剰」になってしまっている、と気づきました。
「実の親に受け止められないくらいなのだから、他人はもっと受け止めてくれないだろう」
と頭で思いつつも、その反動ともいうべきか、心の底では
「親に受け止めてもらえなかった分、誰か私を認めてくれー(親の分まで補填してくれ)」
と叫んでいたような気がします。
親からもらえなかった承認を、他人で埋めようとしていた、という感じです。
親に対してであれ、友人に対してであれ、「期待過剰」になってしまうこと自体は、ある意味仕方がないのかもしれません(心が疲弊しているわけだから)。
ただし、実際の人間関係において「期待過剰」だと、相手としても重いですし、自分としても「また受け止めてもらえなかった」と逐一傷を重ねることになってしまいますよね。
だからこそ、傷つきそうなときは「あ、私、期待過剰になっているな」と自分を客観視することが大事なのかな、と思います。
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他者は勝手に判断してくるもの
本書では、「自分以外の人間」を「他者」と定義し(「自分以外の人間」なので、親も「他者」に含まれます)、他者に対しては、以下のような認識を持っておくのが大事だとしています。
「他者」というのは何が怖いかって、「私」の許可もなく勝手に「この人はこういう人だ」って判断を下してくること。
P.153
つまり「このように私を見てほしい」といったこちら側の願いなんてあっさりふきとばしてしまうような存在、それが他者。このことはぜひ覚えておいてほしい。
P.153
これを読んで、「ハッ」となるとともに、「勝手に(悪いほうに)判断されるのは困る!」というような焦りも感じました、
もう少し掘り下げてみると、「すばらしい人物だと思ってもらわないと困る」「好かれないと困る」という気持ちが見え隠れします。
「すばらしい人物だと思ってもらわないと困る」ということは、言い換えると「普通にしていたら、大したことない人物だと思われてしまう」「見捨てられる」と感じているということですよね。
結局のところ、自己肯定感が低いわけです。
親や親戚に見下されてきた記憶を引きずっているだけなのですが。
視点を変えると、「他人を使って、自己肯定感を上げようとしている」という部分もあるわけなんですよね。
しかし、他人にも他人の事情がありますし、コントロールすることはできません。
コントロールしようとすることは、それこそ未熟な親が自分にしてきたことと同じことを他人にしてしまっているわけです。
そう考えると、「私のことはこう思ってくれ!」って、(たとえ心の中だけであっても)押し付けるのは、すごく失礼なことですよね……。
「わかってもらえなくて傷つく」というのは、「他人を使って自分を安心させようとしたことによって返り討ちに遭った」みたいなことなのかもしれません。
結局、自分のことは自分で受け止めるしかないんですよね。
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自分につけられるイメージが予測できるようになると、傷つきにくくなる
上で引用したように、他者とは、勝手なイメージをつけてくるもの、です。
そのイメージがどんなものか、だいたい予測できるようになると、傷つくことは少なくなってくる、と著者はいいます。
自分自身のことを振り返ってみて、すごく納得しました。
とくに、自己肯定感が低い人の場合、自己イメージが肥大化(理想化)してしまっていることがよくあると思います。
その肥大化した自己イメージよりも、低いほうに見られると傷つくんですよね。
たとえば私などは、中学生くらいまで「勉強ができる」ということで自己を保っていたため、高校で「そうでもない」という事実が濃厚になったとき、なかなかその事実を受け入れられませんでした。
「おかしい、私はもっとできるはずなのに」「ガリガリ勉強しなくても授業を聞いていればこなせるはずなのに」とばかり思って勉強しないので、成績はますます下がる……という悪循環に陥りました。
そんなときに親戚などから「勉強できるみたいに言ってたけど、大したことなかったんだね」などと言われるとものすごく傷つきました(言うほうも言うほうですが)。
自分で受け入れることができていれば、「大したことなかったんだね」と言われても、「そうなのよ、残念」で済んだことだと今振り返ると思います
(とはいえ、劣等感が強ければ強いほど受け入れるのは難しいので、そう簡単なことではなかったとも思います)。
結局のところ、傷つきやすさは「等身大の自分」を認められないことからくるのだな、と改めて思いました。
しかし、人それぞれ事情はありますから、「等身大の自分を認められない」のも仕方がないことです。
ある種の防衛反応でもあると思いますから、「等身大の自分を認めなくちゃ」と焦る必要もないと思います。
可能であれば「今は自分を受け入れられない状態なんだな」と思うのだけでも十分なのではないでしょうか。
(参考になりそうな記事)
ちょっと逸れてしまいましたが、本書の話に戻りまして。
他者とのつながりを持て余す人がつながりをつくろうとするときに心がけることは、致命傷を負わないための「構え」をもつこと。
具体的にいえば、勝手につけられるイメージを予測しておくこと。
相手によっては、こちらを傷つける目的で、わざと「悪いイメージ」を伝えてくる場合もあるでしょうから、真に受けすぎないことも大切かもしれません。
特定の人がつけてきたイメージにとらわれず、いろんな人からの総合的なイメージをまとめるような感じでしょうかね。
どんなに親しい他者でも、自分が持ってほしいと思うイメージどおりに自分を見てくれるわけではないということに対して、「構え」を持つことによって、少しでも自分の自我の傷つきやすさを防ぐことができるんじゃないかな。
P.157
「構え」を持つからと言って、「どうせ理解されない」とあきらめるのではなくて、少しでもわかってもらうことが貴重だと著者はいいます。
「丸ごと理解してもらう」のを期待するものではないからこそ、「自分の好きなことや得意なこと」を基点に、つながりを築いていこう、というわけですね。
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おわりに
仲良くなるうちに、遠慮がなくなってきたりして「この人とは合わない」となるのは、一般的にもよくあることだとは思います。
私の場合、合わなくなるケースがより多いような気がしていました(友達少ない)。
単純にもともと合わなかったケースもあるでしょうが、「仲良くなったのだから、私のこときちんと理解してよね」みたいな期待が無意識のうちにあったのだと思います(反省)。
相手がこちらの期待通りに理解してくれないと、「なんだ、この人、わかってくれないのか」みたいに勝手に失望していたんですよね(反省)。
今後は、「他者は自己イメージどおりには見てくれないもの」を念頭に置いておこうかと思います。
同時に、誰かに何かを言われてもあまり動揺しなくて済むように、長期的には自己肯定感も育てることも課題と感じました(難しいけれど)。