ものごころついたときから私の中に確かに存在した「罪悪感」。
何かしらの悪事をはたらいたときに生じる罪悪感、のほうではなくてですね。
私という存在自体に対してというか、存在のふがいなさというか、「生まれてすみません(by 太宰治)」的な「罪悪感」です。
子どもの頃は言語化できませんでしたが、当時の「罪悪感」を別の言葉で言い換えると
「お父さんやお母さんや、まわりの大人たちをハッピーな状態にできなくてごめんなさい」
というような気持ちだったと思います(ある意味、自分の能力を過信しすぎとも言えますが)。
早々に両親の仲は破綻しており、顔を合わせると大喧嘩になるような有様で。
とりわけ母は精神的にいつも不安定で、祖父母や近所の人ともしょっちゅう揉めていましたし。
理不尽なことで突然怒り出したりするので、訳が分かりませんでした。
とにかく、家の中に、幸せそうな人が一人もいなかったんですよね。
客観的に考えれば、子供だった私が悪いわけでもないのですが、いつしか「私が存在するせいで、すべての揉め事が起こっているのではないか」という気持ちになっていました。
母が怒りに任せて放った「あんたが泣くから揉めごとが起こるんでしょう!」「全部あんたが悪いんだからね!!」「悪いことの始まりはあんた!」といった類の言葉を真に受けてしまったせいだと思うのですが。
この「あんたが悪い」系の言葉を浴びているうち、それらはいつのまにか「罪悪感」となり、私の足を引っ張るようになりました。
今でこそ、こうして冷静に振り返ることができますが、30歳くらいまではずっと「自分がふがいないせいで私の親は幸せではないのだ」と本気の本気で思っていました。
(非行にも走らず、真面目に勉強して働いて、十分ちゃんとした娘だったと思うんですけれどね、今思えば。)
さすがに今は「私のせいで親が不幸になってしまっている」とまでは思わなくなりましたが(親の人生に責任を持つのは親自身なので)、まだやっぱり残る罪悪感。
現在、母とは徹底的に距離を置いていますが、「私は親を捨てた薄情者である」という罪悪感はあります。
そしてそのせいで、父や伯母に迷惑をかけているという罪悪感も。
楽しく過ごしているときは忘れているのですが、眠れない夜とか、「己のふがいなさ」にも似た、罪悪感に押しつぶされそうになることがあります。
そんな心理状況で本屋さんを歩いていたら、気になるタイトルが目に入りました。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)
どんな本?
著者は精神科のお医者さんで、アルコール依存症などに詳しい方です。
著者が以前に書いた本や、ネットカウンセリングの内容から、生きづらさを抱えている人に役立つ文章を抜粋し、そこに新たに解説を加えた、というようなスタンスの本です。
イメージとしては名言集のような感じなので、頭から通しで読む必要もなく、好きなところから読めます。
様々な媒体から抜粋しているようですが、根底にあるテーマはおおむね共通していて、「家族の問題(からくる症状や困りごと)」。
罪悪感はどこからくるか
現在の競争社会においては、親はつい子どもに期待してしまうものです。
飛びぬけて優秀でなくてもいいから、せめて「普通に」くらいのことはだれしも思ってしまうのかもしれません(その「普通」をすべての分野で達成しようとすると、大変難しかったりするのですが)。
親の劣等感が強いと、「普通に」では済まされず、「優秀であれ」と求められます。
親の信じる「世間様」という概念、育つ過程で子どもも自然にインストールします。
つまり、子どもは自己監視装置(「インナーマザー」ともいう)を内蔵するようになるわけです。
常に自分を監視して、「ここがダメ」「あれが足りない」と批判するようになるので、
気が休まりませんし、人間である以上完璧はないので、自己評価も下がります。
そうしていくうちに自分を見失い、根拠のない「罪悪感」を持ってしまうんですね。
特に、機能不全家族(家庭が安らぐ場所として機能していない)のなかで育った子供は罪悪感を持ちやすいそうです。
子どもながらに家のなかをどうにか収めて平穏無事に日々を送ろうとするので、「私が親に愛されるとすれば、それは親の役に立っているときだ」と思ったりもします。そして、ちゃんと親の役に立てていない、理想からほど遠い自分を呪い、「私は生まれてくるべきではなかった」と考えるのです。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.363
本記事の冒頭に書いたとおり、まさに子ども時代の私にあてはまります。
私は、学業で優秀な成績をおさめたり、従順で真面目な生活態度を教師などに褒められる、といった手段で「母を喜ばせる」ことに力を注いでいました。
優秀であればこそ「私は生きていて良いのだ」と思えました。
中学くらいまでは、それでなんとか適応できていたのですが、高校で地元の進学校に入ると、燃え尽きてしまった面もあり、決して「優秀」とはいえなくなってきました。
しかし母は、私が進学校の生徒であることを、方々で自慢していました。
私の高校の制服は「〇〇高の生徒」とわかるような特徴的なものでしたので、「制服着用の上、どこそこの喫茶店に来なさい」と呼び出されたりしました(母が知人に自慢するため)。
知人が母に調子を合わせて「すごいわね、有望ね」などと言ってくれたら、母はさらに自慢げな表情で「〇〇大の〇〇学部(超難関)に行くのよ」などと言うのでした。
あのときの、全身の毛穴が開くような、ゾッとする感覚を、いまだに忘れられません。
先方はうんざりしつつも話を合わせてくれているだけ、ということが認識できない母に対する嫌悪感。
それと同時に「超難関大なんて無理だ、どうしよう」という危機感。
進学校の生徒であることは事実でも、どちらかといえば下から数えたほうが早かった私。
超難関大に進学するほどの学力はありません。
そもそも、努力する気力がすでに枯渇していました。
このままでは私は、生きていてはいけない存在になってしまう。
家庭から、はじきとばされてしまう。
健全な家庭で育った方にはわからないでしょうけれども、ものすごい恐怖でした。
問題行動は「自己表現」
私がもっと優秀であれば、我が家ももっと平穏だったかもしれない。
ああ、親の期待に応えられない自分、ふがいない。
そんなことをぐるぐる考えるうち、勉強はますます手につかず、うつ状態になっていました。
朝起きられない。
涙が出て洋服を選べない。
予備校に行けない。
とうとう、呼吸をすること自体が辛くなり(精神からくるものではあるのですが、本当に呼吸が乱れ、うまく息を吸えなくなりました)、勇気を出して「精神科に行きたい」と母に申し出ました。
母に言わずにこっそり行けばよいと思われるでしょうが、母の承諾を得ないと外出できないシステムでした。
また、当時は保険証が個人カードではなく、家族分が一枚の紙に書いてあるような書式でしたので、母から借りねばならなかったのです。
母は言いました。
「精神科なんか行ったら嫁に行けなくなるから絶っっっ対ダメ!!」
「そもそも、うつの人は自分でうつだなんて言わない。でもあんたは自分でうつだのなんだの言うでしょう。そういう人は絶対にうつじゃないから!」
と。
心の底から絶望しました。
「うつ」かどうかなんてどうでもいいんです。
うつだろうが、うつでなかろうが、「死にたいほど苦しい」ことは私にとっては明らかな事実で、そこを知ってほしかっただけなのです。
母にとっては「私の気持ち」なんかよりも「世間体」のほうがよっぽど大事なのだ、とはっきり認識しました。
満身創痍の身体に、脳天から斧を振り下ろされた気分でした。
他人よりも誰よりも、私を生んだらしいこの人が世界で一番信用できない、と思いました。
そこからはもう「死にたい」とばかり考えるようになりました。
具体的な方法を考えはしても、恐怖心が勝ってしまって、結局実行まではできなかったのですが。
生きることも、死ぬこともできない苦痛。
起きていると心が辛くて気が狂いそうだったので、とにかく眠ってばかりいました。眠っている間だけは苦しさを忘れられたからです。
自分語りが長くなってしまいましたが(すみません)。
こういった問題行動(完璧主義、過・拒食症、依存など)や症状は、実は「自己表現」なのだそうです。
隠れた本音を、そう簡単に表に出すことができないから、わざわざ面倒くさいことをやって、「どうにかして生き残ろう」ともがいているわけです。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.215
普段の生活のなかで、自分の怒りや欲求を表現したり主張できない人々のねじ曲げられた自己表現
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.1506
当時はうまく言語化できなかったのですが、落ち込んでいる姿を母に見せつけることによって、自己主張しようとしていたのかも、と思います。
肝心の母は、ケロリとしていましたが……。
本音を出せるようになれば、問題行動は自然とやんでいく
問題行動や症状も「自己表現」なのですから、それを無理に抑えつける必要はないですよね。
「治そう」とか「ちゃんとしなくちゃ」と思えば思うほど、焦ってしまい、治らなくなりますものね。
同じ体験をした人と語り合ったりして、「本音」を出せるようになると、問題行動は自然とやんでいくそうです。
これは私にも覚えがありまして。
「死にたい」期を経て、なんとか受かった滑り止めの大学に悶々としながら通っていた(今思うとその態度は大学に失礼だったと反省)のですが、あるとき、同じ学科で仮面浪人している人と話す機会がありました。
親の話など、あまり詳しいところは話しませんでしたが、「世間的に”上”に行かないと自分の家庭内における立場がおびやかされる」という、切実な焦りは共通のようでした。
そのとき「ああ、私だけじゃないんだあ」とホッとしたのをよく覚えています。
しかも、ただ悶々と、文句を垂れながら通学する私とは反対に、その人は再受験に向けて、前向きに準備をしているのです。
そこでなんだか目が覚めたような気がしました。
自分のなかで暴れていた猛獣が、ふと、おとなしくなったような感覚でした。
このように、同じ体験をした人と語り合うのはとても効果があると思います。
ですが、必ずしも、そういう人と出会えるとは限りませんよね。
そういう場合は、自分自身が自分の「本音」を認めるだけでも、割り切れる場合もあるのかもしれない、と思います。
というのも、「死にたくて仕方がない」と思っていた私、あれ以来「死にたい」とは思わなくなったんです。
なぜかというと「死ねない」と強く実感したから。
こんなにも苦しくてマジでガチで「死にたい」のに、勇気がなくて、全然「死ねなかった」からです。
かすり傷ひとつすら自分につけられなかったのです。
「私には死ぬ勇気がない」ということを、自分自身で受け入れざるを得ませんでした。
死ねないと自分が納得したら、なんとか生きていくしかない、と思うようになりました。
怒りを抑圧すると恨みに
こうしてなんとか危機を乗り越えた私ではありますが、問題が完全に解決したかというと、決してそうではありません。
母に対する諸々の「怒り」。
子どもの頃からの積みあがった「怒り」。
伝えようとしても全く伝わらないので、もはや伝える気にもならない。
しかし、「怒り」を抑圧していると「恨み」に変わるんです。
怒り自体は生理的で正常な反応ですが、「恨み」となると、持続してその人の生活を支配するようになってしまう、と著者はいいます。
他者と関わるときも、「恨み」の視点でみてしまいますので、最終的には人間関係に行き詰まるそうです。
恨みで汚染された人は、かかわる人がみんな敵のように見えてしまいますから、その後の人間関係を次々と腐敗させていくことになります。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.1556
私の実感としてもまさにそうでした。
元々は母に対する「恨み」だったはずなのに、周囲の人のことも疑いの目で見てしまうんです。
「この人も、(母みたいに)私を利用しようとしているのではないか? 搾取しようとしているのではないか?」と。
すべて悪い方に解釈してしまっていたんですよね。
さらに悪いことには、善人のことはしっかり疑うくせに、肝心の「本当に悪い人」や「本当に利用しようとしてくる人」を見抜けない(または恐怖心で迎合してしまう)のです。
過酷な人間関係に慣れていると、残酷な人からうまく逃げられないんですね。
今思うと、それはやっぱり自分の本音を大切にしていなかったからだと思います。
相手の出方次第で自分がブレてしまい、振り回されてしまっていたと思います。
「おまえがおかしい」と言われると、嫌だなと思いつつも「そうかな……」と動揺してしまっていたんですよね。
「おまえがおかしい」的な雰囲気を醸し出してくる人は、十中八九、支配体質ですから、「そうかな、私がおかしいのかな」と思う必要は決してありません。
自分の感じた「嫌だな」という感覚を優先していいのです。
自分のために生きる
問題行動や症状が出て困っている方も、「恨み」で人間関係に行き詰まっている方も、解法は同じ。
自分が自分自身にも親切にする、ということ。
親友や大事な人が悩んでいたら「どうしたの?大丈夫?」と優しく接しますよね。
それと同じスタンスで自分にも接するのだと著者は言います。
焦ったり、自分を叱り飛ばしたり
してはいけません。
そんなことをすればあなたは、
あなたの残酷な親と同じことを
自分にしてしまうことになります。
まず自分に優しく、そしてゆっくりと。
これが自己修正のコツです。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.686
親が押し付けてくるのは「落伍しないように」という教義だと著者はいいます。
その一方で、子に対して威張りたいという気持ちや、立派な子の親になりたいという気持ちも混ざって、「他人を蹴落とさず、でも一番になれ」みたいな矛盾したことを求めてくるのですよね。
要するに、単なる親の超自分勝手な願望です。
従う必要はない、と著者はいいます。
だれのためでもない、だれのせいにもしない、自分自身をハッピーな状態にすることが、あなたの第一にするべき仕事です。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.1716
え、そんなに自分に甘くしていいの? と思うかもしれません。
私もずっとそう思ってきましたし。
でも実際のところ、自分を受け入れている分だけ、他人のことも受け入れられるのです。
自分への優しさの分だけ、相手にも優しくできるのです。
親に優しくしたい、と思うなら、まずは自分に優しくしないといけないのです。
おわりに
罪悪感の強い方は、次の文章で、だいぶホッとした気持ちになるのではないでしょうか。
すべての罪悪感は無用です。あなたはしたいこと、する必要のあることだけをしてください。あなたが抱いている罪悪感は、本来持つ必要がないものです。それにもかかわらず持とうとするから、無意識のうちに「その罪悪感に見合った人になろう」として、さまざまな問題行動、悪行・愚行に走らなければいけなくなるのです。
斎藤学『すべての罪悪感は無用です』扶桑社(2019)Kindle版位置No.159
私も、罪悪感が完全に抜けきったわけではないですが、人にやさしくするためにも、まずは自分を良い状態にしていこう、と思えました。
本記事では書ききれませんが、本書ではトラウマのメカニズムや、依存などについても触れられていますので、生きづらさを抱えている方には参考になるところがあると思います。
気になった箇所から読めますので、軽い気持ちで手にとってみられるといいかな、と思います。
(罪悪感についてはこちらの記事でも少し触れていますのでご参考まで)
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