ししもとのAC回復ノート

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

〈AC回顧録・リセット編〉強いストレス源から離れる(2)「もう、どうしても母と会うことはできない」と思った

一旦死んだと思って人生をやり直すため、強烈なストレス源から離れることにしました。
本記事は母との絶縁について。

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もう、どうしても会うことはできない、と思った

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堪忍袋の緒が切れた日:「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかったのあと。

母には何も伝えませんでしたが、「もう、本当に、無理だ」と思いました。

能動的に「絶縁を決意した」というよりは、「それ以外あり得なかった」という感じでした。

世の中的には「だいぶ思い切った決断」とみられるかもしれませんが、私としては切実に「それしかなかった」のです。

嫌悪感を心の壺に押し込めてきた

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思えば、だいぶ前から、母への嫌悪感をこらえてきたのです。

たとえば幼稚園のお泊り保育で。
お母さんを恋しがって泣いている子を見て、「あれ? わたしはべつにおかあさんいなくてもかなしくないぞ? だって先生たちのほうがよっぽど優しいし信頼できるじゃん」と思ったのが最初の自覚でした。

そのときは「わたしは大人びているのかな」と思いましたが、今思えば、その頃すでに母のことを信頼していなかったのだと思います。

その証拠に、当時、母が素手で触ったものが苦手でした(きちんと手を洗う伯母のおにぎりなどは平気だった)。

ゴミだらけの汚部屋でボーっとしている姿も嫌でした。
風呂にも入らず、身だしなみに気を遣わないところも嫌でした。

そのように母自身は無気力なわりに、私には「立派になれ!」「お母さんに恥をかかせないでちょうだい!」と、異常な圧力で干渉してくるのも納得がいきませんでした(※今思えば母には何らかの障害などがあったのでしょうが、当時はわからなかったので)

小学校3~4年ころには漠然と「お母さんのいない世界に行きたい」と思っていました。

しかし、小学生が母親と離れることは現実的に無理です。
だから、母に対する嫌悪感を「いや、でも、親なのだから。曲がりなりにも育ててもらったのだから」と頭で封じ込めるほかありませんでした。

封じ込め続けていれば、いつか自分の中でうやむやになって、気にならなくなるのではないか、という期待もありました。
あるいは母が私のことを理解してくれる日がいつかくるかもしれない、とも。

でもたぶん、その期待がいけなかった。
母が変わることはありませんでした。

「完全無欠の1番」でないと夜中まで責められ、思春期には恋愛も実質的に禁じられました。
死にたくてたまらず、精神科に行こうとしたら「嫁に行けなくなる」と保険証を隠されました。

つまり私は「一人の人間であることを許されなかった」のです。
人としての自然な感情を持つことを許されなかったのです。
母の理想をかなえる「優秀なロボット」であり続けることを求められていたのです。

私とて、できれば優秀なロボットになりたかった。
母に幸せになってほしかったから。
「あんたを産んでお母さんの人生はこんなに大変になった」と嘆き続けるのはかわいそうだから。

私さえがんばれば済むと思っていました。
でも私もやっぱり、生身の人間でした。

感情を封じ込めているうちに、うやむやになって適応できるかと思っていたけれど。
心の壺に押し込めていた感情は、むしろ発酵して、毒の含まれたガスを出すようになっていました。

その毒ガスは、壺の蓋の隙間から漏れ出して、私自身の顔をゆがませ、私の近くにいる人たちをも浸食するようになりました。

察しの良い人はすぐに去っていきました。
気づきながらも、優しさで相手をしてくれていた人たちもぽつりぽつりといなくなりました。

それでもなお私は、毒ガスの発生している壺に、感情を押し込みフタをし続けました。

そうして、さらに濃い毒ガスをまき散らしながら、「(ほんとうは親に認められたいけれどそれはむずかしいので、ほかの)だれか私を認めてくれ」とゾンビのように生きていました。

毒ガスのにおいを消臭剤でごまかして、表面上は普通に過ごしていたつもりだったけれど、私自身が一番よくわかっていました「ごまかしている」ということを。

無理な力がかかれば何だって割れる

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内圧の上がり続けた、危うい壺を刺激したのもまた母でした。

母が部屋にバケツを持ち込んでそこに排泄するようになってからは、母の姿を見ただけで吐き気がするような感覚になっていきました。

そして最後の一押しがこのできごと(「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかった)でした。


嫌悪感を封じ込めていた壺は爆発して、怒りが噴出して、こなごなに砕け散りました。

二つに割れた、くらいなら、質の良い接着剤で修復できたかもしれません。

でも、こなごなに砕けてしまったので、もう二度と再生できなくなりました。

迷いも後悔もなかった

ここまで追い込まれてからの絶縁だったので、迷いも後悔もありませんでした。

ほんとうに「それしかなかった」という感じで。

可能な限りの我慢は、限界までやりきった、と思っています。

100回考えても、1000回考えても、「私にはこの選択肢しかなかった」と思えるので、たとえばだれかに「親不孝者」と言われようとも、全然平気だったりします。

他者の言葉や態度に傷ついてしまうときというのは、自分が自分を責めているからなのですね。

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