娘の罪悪感を刺激し、無自覚に娘を支配する「重い母」。
そんな母からの呪縛から逃れ、いかにして人生を取り戻していくか、を母が重くてたまらない 墓守娘の嘆きを参考に、私の経験も交えて考えていきます。
(2021年に執筆した記事ですが、ブログ再構築にともない、加筆修正の上再更新しています)
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「あなた(娘)のため=母の都合」と気づいたら
怒りの噴出
私の母は「あんたのため」「あんたが苦労しないように」「あんたを想っているからこそ」を振りかざして、私を思い通りに動かしてきました。
その構図に確信をもったとき(〈AC回顧録・29歳〉堪忍袋の緒が切れた日のこと:「母に認められること・愛されることはこの先も一生ない」とやっとわかった)、愕然としました。
「今までの私は何だったんだろう……」と。
やるせなさとともに、猛烈な怒りが湧いてきました。「噴き出す」のほうが近いかもしれません。
支配に気づいたこと自体はめでたいことなんです、自分の人生の本当のスタートラインに立つことでもありますので。
でも、スタートラインに立ってからも、実はとてもきついのですよね。
なぜかというと、怒りと同じ圧力、いや、何倍もの勢いで湧いてくるのが「罪悪感」だから。
母のことばにかすかな違和感を感じたり嫌悪感を抱くたびに、まるで倍返しのように罪悪感が沸いてきてあなたたちを苦しめただろう。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』P.169
何も悪いことをしていないのに……尋常ならざる罪悪感に襲われる
「あんなに寂しそうでひとりぼっちの母親に対して怒りの感情を抱くなんて、やっぱり私がわがままだったんじゃないだろうか」
「私が母を捨ててしまえば、母はどうなってしまうんだろう。本当は私のことを思っていてくれたんじゃないだろうか」
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』P.169
私自身も、母に対する怒りが噴き出しつつも、「仮にも育ててくれた人にこんなにも強い怒りを抱くなんて、私はどうかしているのではないか」「悪気はなかったのだろうから、こんなに悪く思ったら可哀想ではないか」と強い罪悪感を覚えました。
ほぼ罪悪感との戦いだったといっても過言ではありません。
法にふれるような罪を犯したわけでもないのに、なぜここまで罪悪感を持ってしまうのか。
罪悪感の正体 - そもそも母が植え付けたもの
私の場合は「親を大事にすべき」という価値観がこびりついていたがために、「親を大事にできない私はダメだ」と、自分で自分を裁いてしまっていました。
でもこの「親を大事にすべき」ってどこから来たのでしょう。
これは母が常々あなたたちに言って聞かせたことの内面化であり、世間とう常識の総体があなたたちに強いてきた認知そのものなのだ。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』P.172
そう、主に「母から」なんですよね。
親を大事にしたい人・できる人はすればいいとは思いますが、(無自覚かもしれないが)都合よく利用してきたような親を、自分よりも優先せねばならないのでしょうか?
親が未熟な人間であればあるほど、親はますます子に「奴隷化」することを望みます。
親の人生ばかり大切にしていたら、自分は「親に捧げるための人生」を歩むことになるわけです。
どうして親の人生のほうにばかり重きが置かれなければならないのでしょうか。
親の人生も、自分の人生も、同じ重みのはずです。
だからこそ私は、「自分の人生を生きてもよい」と思うのです。
すごく勇気がいるけれど……「お断り」がキーポイント
娘が娘自身の人生を生きるためには、「母の要求」を断る必要が出てきます。
無神経な侵略や支配は拒絶していい、というか、拒絶しなければいつまで経っても母の支配下に留まることになってしまいます。
ただし、揚げ足を取られないよう、丁寧な言葉遣いで!
ポイントは丁寧なことばづかいをすることだ。いたずらにぶっきらぼうで感情的になると、つけこまれることになる。「いやよ!」と叫べば、「どうしたの、最近不安定じゃないの」とするするっと入り込まれることになる。アイ・メッセージで伝えるのも一つだ。「私には今無理です」「私にはできません」とゆっくりはっきり伝える。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』P.181
この引用のように「お断り」ができれば良いですが、実際はとてもとてもとても難しいと思います。
断ると叫んだり泣いたりしますから、ついその調子につられてこちらも言い返してしまったり。そうなるとまたあちらのペースに巻き込まれてしまいます。
そもそも意志疎通できるような人ならば、こじれていませんからね。
私の場合は、話し合いという概念自体が存在しない母なので、絶縁という形をとることになりました。
「世間」からの横槍にも注意
ただし、この「親を大事にすべき」は世間的にも言われていることです。
うっかり「母と疎遠」などと言ってしまうと、よく事情を知りもしない他人からの「指導」が入ります。
「でも、暴力はそんなになかったんでしょ? だったら、そんなに怒るほどのこと? 親孝行したいときに親はいないよ」
「そうは言っても、あなたはまともに育ってるじゃない。それは親の育て方が良かったってことでしょ」
悪意のないパターン、こちらを励ましているつもりのパターンはきついですよね。
私が育った時代は「ひどい暴力がなければいい(=しつけなら多少の暴力は仕方ない)」という雰囲気があったので、精神的な虐待に関してはほぼ「なんでもアリ」という扱いでした。
そういった価値観にさらされていると「やっぱり私の我慢が足りなかったのかな……」などと、モヤモヤしてしまうんですよね。
刷り込まれた「罪悪感」、手放せたらこれほど楽なことはないのですが、現実的には本当に難しいです。
あなたたちは日常的に相反する認知・感情のあいだを激しく往還している。おまけにマスコミの媒体は罪悪感を増長する情報しか流さない。そんな状況で罪悪感をゼロにする、感じなくするという目標設定そのものが達成不可能に思える
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』P.172
最近は、芸能人の方が母とのわだかまりを告白したり、少しずつ、「毒親」も理解されるようになってきたので、「時代は進んでいるなあ」とホッとします。
罪悪感は必要経費?
著者によれば、「罪悪感をゼロにしようとするのは現実的に無理なので、「必要経費」と考えてみてはどうか」とのこと。
「生まれた家がアレだったから、私、生きるのに経費かかるんだわー、経費分稼がなきゃならないから、楽しいことをして稼ごう(人生を取り戻そう)」くらいのスタンス、ということですかね。
ケチな私は必要経費すら払いたくないと思ってしまいますが……(実際にはもう何年も、経費払い続けてきましたけど)。
まあでも確かに、ある程度の必要経費を払えば、罪悪感は薄れてくるように思います。
ただし、単に時間が経つのを待てばいいというものでもないです。
人によっては、罪悪感をさらにこじらせてしまっているケースもありますので。
自分の選択を自分で納得できるかどうか
私の場合、なぜ罪悪感が薄れてきたかと考えてみると、「私が自分の人生を生きるにはこの選択肢(母と絶縁)しかなかった」と心の底から認められるようになったからだと思います。
とはいえ、親に迎合して生きてきた人にとっては、「自分で自分を認める」ことはとても難しいことだと思います。
かといって、周囲に相談するのもあまり良い方法とはいえないですよね(逆に傷つくことのほうが多いので)。
私の場合は、親子関係の本を大量に読んだことが癒しにつながったと思います。
だいたいどの本にも「どうしようもなければ離れていい」「自分の気持ちを基準に選択していい」と書いてあったので、少しずつ「これでいいんだ」と思えるようになりました(すごく時間はかかりました)。
親子関係の本でなくても、世の中の価値感に囚われずに生きている人の本などから「えっ、こんな生き方もアリなの? だったら私もちょっとくらい好きに生きてもいいかな」と感じたりしました。
私にとっては、「様々な価値観に触れる」ということが大事だったのだろうと思います。毒親は、支配しやすいように、子どもの人間関係を制限したがるので、視野狭窄になりやすいんですよね。
本だと時間がかかりますし、ピンとこないという方は「ACの自助グループ」に参加してみたり、「カウンセリング」もよいと思います(『母が重くてたまらない』でもおすすめされていました)。
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本記事のまとめ
・重い母からの無神経な侵略や支配は「お断り」してよい(自分の人生を生きるためには必須)
・「お断り」を阻むのは罪悪感
・罪悪感の大元を辿ると、それを刷り込んだのは母(や世間)
・自分の選択に納得できるようになると、罪悪感も薄れてくると私は思う
おわりに
薄れてきたとはいえ、母が生きている限り、罪悪感は完全には無くならないでしょう。
母が亡くなってもなお、罪悪感との闘いかもしれません。
それでも私は、「母と距離をとってよかった」と感じています。
自分の人生を生きることに決めて、本当によかった。
あのまま「母に捧げるための人生」を歩んでいたら、私はもうとっくに、この世にはいなかったでしょう。
参考文献
同じ本のほかの記事
・「うちの母、なんかおかしい?」と思ったら6タイプの「重い母」に該当するかチェック
息子よりも「母と娘の関係」がこじれがちなのはなぜ?
・その1:同性の先輩ゆえの上から目線や価値観おしつけ
・その2:娘の罪悪感を利用して支配しているから
・その3:しかも娘を支配していることに気づいていない