(2021年に執筆した記事ですが、ブログ再構築に伴い、加筆修正して再更新しています)
「お母さんはすべて私のためにやってくれているのに……どうしてこんなに疎ましく感じてしまうのだろう」
けれど、他の家庭で暮らしたこともないし、「母がズレているのか、私自身がズレているのか、よくわからない」と悩んでこられた方も多いのではないでしょうか。
そんな方に向けて、カウンセラーの信田氏の著書をもとに「重い母6パターン」を紹介したのが前回の記事でした(→「うちの母、なんかおかしい?」と思ったら6タイプの「重い母」に該当するかチェック)
本記事では、そのような「重い母」はなぜ生じてしまうのか、ということを考えていきます。
(この本↓を参考にしていますが、自分で咀嚼し直しているので、正確なところは書籍でご確認いただければと思います)
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かつては母も娘だったのに……
かつては娘だった彼女たちが、なぜ母となると無神経とも思える姿を娘に向かって平気で晒すようになるのか。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.117
そう。そうなのよ。
私自身も、干渉してくる母に対して「どうしてこんなにも無神経なのだろう。この人は子ども時代の記憶というものを完全に失ってしまったのだろうか?」と、ものすごく不思議に思ってきました。
血がつながっているとはいえ別の人間なので、気質の違いはもちろんあるでしょうけど……。
でも、完全にそれだけでもないような。
友人の話を聞いていても、「世代が異なることによる分かり合えなさ」みたいなものは感じてきました。
重い母が生ずる背景
上の世代の女性たちは社会から「母性」を押し付けられてきた
「母性」の定義はいろいろあるのでしょうが、ここでは「母性:女性は子をかわいいと思うもの」とします(ここで定義を議論していると猛烈に長くなってしまうので割愛)。
・女性なら誰でも「子どもが欲しい」と思うもの
・子どもをかわいいと思えない女はおかしい
とまで思っている人も、まだいるような気がします。
しかし、現実を見てみると、女性全員がいわゆる「母性」を持っているなんてことはありませんよね。
私自身、子を持ちたくない人間ですし、万が一産んだら子を憎んでしまいそうです。残念ながら母性ゼロです。
私の場合は、機能不全家族で育ったことが多いに影響しているとは思いますが、平和な家庭で育った人でも、「子を産むよりも自分の人生を生きたい」という方はいらっしゃるのではないかと。
もちろん、「母性」を持っている女性もたくさんいるでしょうが、「全員」ではないんですよね。
にも関わらず、「母性とは女性の絶対的な特徴」みたいにみなされてきましたよね。
いろんな考え方があるでしょうが、著者は
近代以降、社会の単位としての家族を成立させていくために制度的に必要とされたのが母性だった
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.118
という立場をとっています。
私も同感です。
ここ100年くらいの日本を考えてみると、富国強兵・戦争・経済成長など、「国のため」に人材が必要だったんですよね。
となると、女性に(ほぼ強制的に)産んでもらう必要がある。
暗黙の了解的に「産むのが当然」という空気をつくりたい。
そのために「母性」という概念が必要だったのだろうと思います。
実際、ひと昔前までの「産め圧力」はすさまじかったですよね。
結婚後に子供ができなければ離縁されることもありましたし。
「子なきは去れ」というフレーズがあったくらいですし。
日本は、個人よりも「家」を重視する国でしたから。
子を産まないことで「失格」の烙印を押されたくないから産む、というケースも意外とあったのではないかと思います。
夫としても、子育てだの家事だの、面倒なことを考える必要がなく、仕事だけがんばればよかったので、女性(=母性)に丸投げできるのはある意味都合がよかったのでしょうね。
妻側に丸投げ状態だったからこそ、妻サイドは「産んでみたら想像をはるかに超えて大変だった。こんなはずじゃなかった。私の人生、子育てで終わるのか……」と絶望→(無意識的に)子に当たってしまう、という面も少なからずあったのでは、と思います。
自己犠牲を通じて、でしか欲望を実現できなかった
このように、女性たちに押し付けられてきた「母性」ですが、多かれ少なかれ「自己犠牲」が伴うものだと思います(特に育児なんか最たる例)。
で、この「自己犠牲」って、昔話とか伝承エピソードの影響なのか、「尊いもの」というイメージがあるような気がしますよね。
「自己を犠牲にして他人に尽くす=偉い」みたいな。
(極端な例だと戦時中の特攻隊なんてまさに該当しそうですけど。
→「尊い」ってことにしておかないとやっていられないから、そのように設定された面は否めませんよね……つまり「自己犠牲」って大きな力に操作されたことの証拠と言えるかもしれない)
自己犠牲はしんどくて、でも、「自己犠牲=偉い」からこそ、重い母たちは口をそろえて「お母さんはね、自分のことは全部犠牲にして、あんたを育てたの」などと言うわけで。
でもこれ、見方を変えると、「被害者ポジション」を取りに行ってるとも受け取れるんですよ。
「こんなに大変だったのよ(だから、良くしてちょうだいね)」と。
「自己犠牲」を提示して、対価を求めている。
「自己犠牲」という武器を使って、罪悪感を刺激することで、娘から「引き出せるものは引き出したい」というわけなんですよね。
娘を通して、母自身の欲求を叶えようとしているのです。
自分の欲求は自分で叶えればいいじゃないか、と言いたいところですが、母たちの時代は、男尊女卑もまだ強く、現実的には難しかったのでしょう。
だから直接的にではなく、巧妙に娘を操ることで、願望を達成しているんですね。
「ママはどうでもいいの、あなたさえ幸せなら」という自己犠牲的発言の背景に淀んでいる欲望の存在を明確にすること。それは裏返せば、自己犠牲的な態度でしか母の欲求を実現することは不可能だったことを証明することでもある。母の自己犠牲は、たった一つ許された欲望実現のための手段なのである。その欲望は子どもだけに一極集中して向けられる。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.125
だから、真面目に聞かなくてよかったんだ
母が罪悪感を刺激してきたら、「母は母自身の欲望を満たそうとしているのだぞ」ということに気づく必要があったのだな、と今は思います。
でも、わからなかった。
だって、子どもとしては、親に幸せになってもらいたいですもんね。
「お母さんはこんなに大変だった」と言われれば申し訳なく思うし、少しでも力になりたいと思ってしまうものですよね。
ちょっと自分が我慢すれば、お母さんは幸せになるのだと思えば、そっちを選んでしまうものです。
でも、母の意向に沿っているうちに「もっともっと」と要求がエスカレートしていく。
そりゃそうです、母は母自身の欲求を直接叶えているわけじゃないので、本質的にはいつまで経っても満たされないわけですよね。
穴の開いたザルに、いつまでもエネルギーを注いでしまった。
そんなんなら、自分自身に注げばよかった……。
これまでのことは仕方がないので、今後は自分の気持ちを大事に生きていこうと思うのでした。
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おわりに
・社会のために女性は「母性」をおしつけられてきた
・その結果、自己犠牲を介することでしか欲望実現ができなかった
・重い母たちは、自己犠牲を武器に、娘の罪悪感を刺激し、娘を通じて、自分の欲望を達成している。
このように考えると、重い母たちもまた、犠牲者なのかもしれません。
だとすると、母だけをを責めるのは気がひけるような気もしてきます。
日本社会、いえ、どこの社会も、誰かの犠牲の上に成り立ってきたのかもしれないですね。
ここ最近になって、その犠牲が取り払われるようになってきて、個の自由が比較的認められるようになってきたこと自体は「よかったなあ」と思います(それと引き換えに「少子化問題」があるわけですが……無理して生んで心理的に不幸な子が増えるのもどうかとも思うので……個人的には仕方ないかな、と思う立場です)。
過渡期ではありますが、100年とか、長いスパンで考えれば、良い方向に向かっているのだろうと思います(思いたい)。