足かせは外すことにした

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

娘にのしかかる「重い母」はいかにしてつくられたか

信田さよ子氏の『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』を読み直し中。
(本書の全体像は>>>どこまでもついてくる母からどう逃げるかのヒント【もくじ】|感想『母が重くてたまらない』 

本記事では、娘にとっての「重い母」はなぜが生じたのか、ということを考えていきます。
(本を参考にしていますが、自分で咀嚼し直しているので、正確なところは『母が重くてたまらない』でご確認いただければと思います)

(Amazonリンク)母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き


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かつては母も娘だったのに……

かつては娘だった彼女たちが、なぜ母となると無神経とも思える姿を娘に向かって平気で晒すようになるのか。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.117


干渉しまくってくる母に対して「どうしてこんなにも無神経なのだろう。この人は子ども時代の記憶というものが完全に消えてしまったのだろうか?」と、私自身ものすごく不思議に思ってきました。

重い母が生ずる背景

社会から押し付けられた「母性」

まずは「母性」とはなんぞや、ということですが。
どこで習ったわけでもないのに、なんとなく浮かぶイメージはありますよね。
・母とは子に無条件に愛情を注ぐもの
・聖母、理想の母親的性質
・慈悲そのもの
あたりでしょうか。

人によっては、
・女性なら誰でも「母性」をもっているもの
・女性なら誰でも「子どもが欲しい」と思うもの
・子どもをかわいいと思えない女はおかしい
とまで思っている人も、まだいるような気がします。

しかし、現実を見てみると、女性全員がいわゆる「母性」を持っているなんてことはありませんよね。

私自身、子を持ちたくない人間ですし、万が一産んだら子を憎んでしまいそうです。残念ながら母性ゼロです。

私の場合は、機能不全家族で育ったことが多いに影響しているとは思いますが、平和な家庭で育った人でも、公にしないだけで「子を産むよりも自分の人生を生きたい」という方はいらっしゃいます(実際に知っています)。

もちろん、「母性」を持っている女性もたくさんいるでしょうが、「全員」ではないんですよね。
にも関わらず、「母性とは女性の絶対的な特徴」みたいにみなされているのはなぜなのでしょうか。

いろんな考え方があるでしょうが、著者は

近代以降、社会の単位としての家族を成立させていくために制度的に必要とされたのが母性だった
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.118

という立場をとっています。

私も同感です。
ここ100年くらいの日本を考えてみると、富国強兵・戦争・経済成長など、「国のため」に人材が必要だったんですよね。
となると、女性に(ほぼ強制的に)産んでもらう必要がある。

暗黙の了解的に「産むのが当然」という空気をつくりたい。
そのために「母性(ここでは「母性:女性は子をかわいいと思うもの」とします)」という概念が必要だったのだろうと思います。

実際、一昔前までの「産め圧力」はすさまじかったですよね。
結婚後に子供ができなければ離縁されることもありましたし。
「子なきは去れ」というフレーズがあったくらいですし。
日本は、個人よりも「家」を重視する国でしたからね。

(暗黙的にではありますが)強制されれば、「子がほしい」と思えない女性も結婚・出産せざるを得なかったでしょう。

(子どもが欲しいわけではないが)子を産まないことで「失格」の烙印を押されたくないから産む、というケースも多々あったのではないかと思います。

夫としても、子育てだの家事だの、面倒なことを考える必要がなく、仕事だけがんばればよかったので、女性(=母性)に丸投げできるのはある意味都合がよかったのでしょうね。

妻側に丸投げ状態だったからこそ、妻サイドは「産んでみたら想像をはるかに超えて大変だった。こんなはずじゃなかった。私の人生、子育てで終わるのか……」と絶望→(無意識的に)子に当たってしまう、という面も少なからずあったのでは、と思います。

自己犠牲を通じてでしか欲望を実現できなかった

このように、女性たちに押し付けられてきた「母性」。
母性の重要な構成要素の一つに「自己犠牲」があります。

昔話とか伝承エピソードの影響なのか、「自己犠牲」って「尊いもの」というイメージがあるような気がします。
「自己を犠牲にして他人に尽くす=偉い」みたいな。
戦時中の特攻隊なんてまさに該当しそうですけど。

「自己犠牲=偉い」からこそ、重い母たちは口をそろえて「お母さんはね、自分のことは全部犠牲にして、あんたを育てたの」などと言うのでしょうね。

でもこれ、速攻で「被害者ポジション」取りに行ってるとも受け取れますよね。

乱暴な比喩かもしれませんが「ちょっとした当たり屋」っぽい気がしませんか。

わざと向こうからぶつかってきたのに、「足元に石が落ちてたから、踏まないようにかばってあげたの!」と言っているのと変わらない気がします。
とはいえ、辛そうにしているので、「大丈夫ですか?」とこちらも聞かざるを得ません。
すると「あそこが痛いここが痛い」「骨が折れてるかも」「病院連れて行って」などと要求してくる。
しかも、それから何年経っても「あなたをかばって転んだときの傷が痛むわ」などと言い、こちらの罪悪感を刺激してくるわけです。

実際、私の母は「あんたを生んだせいで太った」とか「あんたを公園に連れて行ったからシミやシワができた」とよく言っていました。

「自己犠牲」という武器を使って、罪悪感を刺激することで、娘から「引き出せるものは引き出したい」というわけなんですよね。

娘を通して、母自身の欲求を叶えようとしているのです。

自分の欲求は自分で叶えればいいじゃないか、と言いたいところですが、母たちの時代は。おそらくそれが現実的には不可能だったんでしょうね。

だから直接的にではなく、巧妙に娘を操ることで、願望を達成しているんですね。

「ママはどうでもいいの、あなたさえ幸せなら」という自己犠牲的発言の背景に淀んでいる欲望の存在を明確にすること。それは裏返せば、自己犠牲的な態度でしか母の欲求を実現することは不可能だったことを証明することでもある。母の自己犠牲は、たった一つ許された欲望実現のための手段なのである。その欲望は子どもだけに一極集中して向けられる。
信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き』春秋社(2008)P.125

 


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おわりに

・社会のために女性は「母性」をおしつけられてきた
・その結果、自己犠牲を介することでしか欲望実現ができなかった
・重い母たちは、自己犠牲を武器に、娘の罪悪感を刺激し、娘を通じて、自分の欲望を達成している。

このように考えると、重い母たちもまた、犠牲者なのかもしれません。
だとすると、母だけをを責めるのは気がひけるような気もしてきます。

ただし、「きっちり線を引く」ということは大事です。

母が罪悪感を刺激してきたら、「母は母自身の欲望を満たそうとしているぞ」ということを念頭に置いて、「自分はどうしたいのか」ということをよく考える必要がありそうです。

重い母が出来上がる背景に男尊女卑などの社会背景があるのだとしたら、最近生まれた子どもたちが大人になるころには「重い母」は少しは減っているのかもしれませんね。

とはいえ、表向き男女平等になったからこそ、「ワンオペ育児」などもよく聞きますし、女性にかかる負担がますます増えている家庭もあるでしょうから、一概には言えませんが……。

100年とか、長いスパンで考えれば、良い方向に向かっているのだろうと思います。

参考文献

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き

 

 


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