ししもとの読書ノート

生きづらさの軽減をめざして

悲しいときに「悲しい」と思うことを許す |感想『「自分の居場所」をつくる心理学』

 


精神的な意味での「自分の居場所」、子供の頃から探してきました。

両親不仲、祖父母と両親も不仲。
母から向けられるストレス。
いつも周りに争いごとがあり、嵐が過ぎるのをひたすら待ち、「揉めませんように」と祈ることしかできない日々。

物理的な居場所はあれど、精神的に安心できる居場所はありませんでした。

いつも精神的安住の地を求めていた私にとって、このタイトルはとても魅力的に映ります。

加藤諦三『「自分の居場所」をつくる心理学』PHP研究所(1989)

私の手元にあるのは30年前に出版されたものですが、新版が出ています。

(※本記事引用箇所に記載したページ数は第一版のものです。新版とは対応しておりません)

 

[新版]「自分の居場所」をつくる心理学

[新版]「自分の居場所」をつくる心理学

 

 

 



どんな本?

気兼ね、しつこい、頑固。

こういった人々を例にとりながら、神経症(ノイローゼ)的な要求をする人の心理を解説しています。

神経症のままだと人生はどうなるか、自分が神経症的だと気づいたとして具体的にどうしたらよいのか、といったことが書かれた本です。


ちなみに、「気兼ね」と「しつこさ」は根底にあるものは同じで、表と裏の関係にあるそうです。

気兼ねしている人は「甘えたい」のですが、それ以上に強いのが「受け入れられたい」。
だから「甘え」の欲求を押さえて「気兼ね」するわけですね。

しかし、いったん親しくなった人には、相手の犠牲を強いるほどの傲慢な要求さえ、平気ですることがあります。

また、基本的に人を信じられないので、本当に愛されているのか何度も確認しないと気が済まないようなところがあり、それが「しつこさ」となる。

結局のところ、不安だからこそ「愛を通して安心を手に入れたい」のだそうです。
本当にほしいものは「愛」ではなく「安心」。

読んでいて身につまされるところが多々ありました。

 

神経症の人の特徴

小さい子供は基本的には「自分が一番」ですよね。
母親が自分にかまってくれないとムクれたり、駄々をこねたりします。

このとき母親が面倒がらずに子供の相手をしたり、愛情を注ぐことができれば、「自分が一番でないと嫌」的な自己中心性は、成長とともになくなっていきます。

しかしながら、母親から相手にしてもらえなかった場合、心理的な成長が止まってしまうので、大人になってもなお「自分が一番でないと気が済まない」という状態に留まってしまいます。

私自身、人様のことを言える立場にないのですが、「自分が一番でないと気がすまない」大人、実はけっこう多いですよね。

家庭で威張りまくっている夫とか、部下が自分にヘコヘコしないと不機嫌になる上司などもこれにあたるでしょうか。

実際は、年齢的にはいい大人なので「ちやほやしてくれ」「一番に扱ってくれ」とは言えず、「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」とか「俺は一家の大黒柱だぞ」に形を変えるわけですが(最近は共働き家庭が増えてきたので、別の表現になっているのかもしれません)。


お恥ずかしながら私自身も、特に若い頃は、何かしらのコミュニティ内で自分よりも大切にされている(ように見える)人がいると「あの子ばかり大事にされてずるい(=私のことも大事にしてくれ)」と思いがちなタイプでした(反省)。

このように、神経症の人の特長は「自分が一番でないと気がすまない(自己中心性)」だと著者はいいます。

自分にだけはいつも何か特別なものが用意されていることを要求するのが神経症的要求の特徴である。

加藤諦三『自分の居場所をつくる心理学』PHP研究所(1989)P.106

 


「自分は特別扱いしてもらうべき存在である」
このように書いて客観的に眺めると「なんて傲慢な」と思いますが、無意識のうちに相手や周囲に甘えてうっかり「自分を優遇しろ」なスタンスになってしまうこと、あるのではないでしょうか。

このような「自分は特別」意識を持っていると、「自分は特別」だからこそ、他人と同じような地道な努力ができない、と著者はいいます。

自分の人生にだけは特別な恩寵が授けられていると心密かに期待する人は社会的に挫折する。そしてやがて自分の人生の無意味感に苦しむことになる。

加藤諦三『自分の居場所をつくる心理学』PHP研究所(1989)P.111

 

こ、これは耳が痛い。

かつて、優等生と呼ばれ、教師や周囲からの評判も良かった私は、「自分は(全般的に)デキる」と勘違いしておりました。

が、どんな分野であれ、上には上がいるもの。
天才でない限り、多かれ少なかれ地道な努力はどこかで必要になってくるものです(むしろ、天才こそ、夢中になるあまり自然と努力していたりします)。

しかし当時の私にとっては、努力すること、それ自体が癪だったんです。
自分は特別なはずだから、と。
「努力しないと得られないのだったら、いらない」とまで思っていたふしがあります(汗)

当然ながら、待っていたのは挫折ですよね。

「全般的にデキる」は、その実「どれも中途半端」なのでした。
その事実を認めることすら、とても時間がかかりましたが。

努力の重要性を思い知ってもなお、心のどこかで「何か良いことが巡ってはこないだろうか」「何か眠っている才能があるのではないか」といった「棚ぼた」を期待しているようなふしがありました(お恥ずかしながら現在ですら皆無とはいえない)。

だからこそ「コツコツ地道に」が苦手でした。
ラクして良いとこどりしたかったんでしょうね。
「自分は特別」と思っていれば、「特別ゆえの好機」がくるのをただ待っていればいい、ということになりますから、一見そっちのほうがラクに感じますものね。

しかし現実として、「棚ぼた」は滅多にあるものではありません。
今か今かと手を広げて待っていても、好機はやってこない。
そんな状態が続くのがふつうです。
にも関わらず、神経症の人(自分も含め)は「こんなに手を広げて待っているのに! おかしい!(自分は特別なはずなのに!)」となってしまうんですよね。


そうやって期待と絶望を繰り返すうちに、人生の無意味感が顔をのぞかせるようになる、というのは非常によくわかります。


なぜ「自分だけは特別」を要求するのか

先に述べたように、神経症の人は、小さい頃に心理的外傷を負っています。

傷の種類や大きさは人それぞれでしょうけど、基本的には「親(とくに母親)から十分に愛されなかった」ということ。

虐待やネグレクトといったひどいものに限らず、「親にとって都合のよいことをしたときのみ存在を認められた」なども「愛されない」の一例です。

愛されないことにより、心の底にへばりついているのは「孤独感」。
「(家族から)のけ者にされた」という感覚ともいえるかもしれません。

孤独で仕方がないからこそ、他人から関心を持ってもらいたくてたまらないのだ、と著者はいいます。
深刻な「孤独」や「のけ者意識」をごまかすために「特別」が必要なんですよね。

他人に気に入られたい気持ちが大きすぎると、自分を偽ってしまいます。
偽っているうちに本当の自分を失うので、辛いのはもちろん、ますます不安になったりするのだそうです。


私もずっと「孤独感」および、そこから生じる「不安」と戦ってきました。

「ああ私は(精神的に)ひとりぼっちだ」とか
「私が困難に遭っても誰も助けてくれないだろう」といった
暗澹たる気持ちに常に覆われていました。

「いざというときにだれも助けてくれない」と思ってしまうと、「いざというとき、どうしよう!!」と不安が増幅するんですよね(いざというときになったら考えればいいのに)。
予期不安といいますか。
予期不安のせいで身体症状が出てきたりもしました(強迫神経症など)。

不安をなんとかしたくてもがくのですけど、やみくもに溺れているようなもので、エネルギーを無駄に消費しているな、と感じていました。
でも、どうにもできない。
どうにかしようとすればするほど不安が増幅し、悪循環に陥っていたと思います。


「いざというときに力になってくれる人」や「いかなる自分をも受け入れてくれる場所」を探し求めて、あっちこっちさまよっているような面もありました。

しかし、異常なほど気を遣ってしまって自分が勝手に潰れたり、相手に迎合しまくってナメられたりするので、かえって「私の居場所はこの世にないのか」という絶望を強めていたように思います。
結果、継続的な人間関係もなかなか築けませんでした。


居場所のつくりかた

では、居場所を求めてしまう人は、どうしたらいいかというと。

まず「周囲から称賛を得ようとするのをやめる」。

称賛を得ようとするのではなくて、心理的弱点を治そう、と著者はいいます。


心理的弱点を治すとは、具体的にどういうことかというと、

小さい頃の悲しい感情を一つずつ取り出して、味わう

というプロセスが大事のようです。

愛されなかった人は、感情を殺さないと生きてこられなかったわけです。
それほど壮絶だったんです。
だから「悲しい」と思いたくても「いや、親は自分のためにあえて厳しくしたのだ」とか「これくらいどこの家庭でも普通のことだ」などと抑圧してきたわけです。

けれども、「悲しい」を抑圧していると、他の感情、とりわけ「嬉しい」「楽しい」なども感じにくくなります。
結果、人生を楽しむ力が全体的に落ちてしまっているわけですね。

だからこそ、小さい頃のことを一つずつ「ああ、あれは悲しかったな」「惨めな思いをしたな」と味わい直すことが必要なのだそう。
「親が否定していたから自分も嫌いなフリをしていたけれど、本当はコレが好きだった」なんてことも発覚するかもしれません。


そこに「実際の自分」がある、ということなのですね。

実際の感情を取り戻せば、何に対して「楽しい」や「嬉しい」と思うか、ということも徐々にわかってくるでしょうから、自分の輪郭が見えてくるというか、「自分はどういう人間か(何が好きかetc)」が説明できるようになるのでしょうね。

「楽しい」「嬉しい」と感じること、それを意識的に取り入れるようにすれば、多少は人生が良くなりそうな気はします。

結局自分の実際の感情を味わうことなく、他人に見せる自分を取り繕うことに専念してきたのである。どうすれば他者の好意を得られるかということばかりに専念して、実際の自分の感情を無視してきた。それが防衛的性格である。

加藤諦三『自分の居場所をつくる心理学』PHP研究所(1989)P.164 

 

グサッ。

自我が確立して自分は何者であるかが分かってくると、人から居場所を与えられなくても自分で自分の居場所を作れる。

加藤諦三『自分の居場所をつくる心理学』PHP研究所(1989)P.155

 

厳しいように感じるかもしれませんが、結局、「自分を助けてくれる何か」があるのではなくて、「自分で自分の居場所をつくる」のが答えなんですね。

本書で提案されていたのは「一人で楽しめるもの」をまずは探す、ということ。
楽器でもいいし、読書でもいいし、服が好きならおしゃれして出かけるでもよし。

「楽しめるもの」と聞くと「ものすごく楽しいものでなければ!」と気合いが入ってしまいますが(私はそのタイプ)、最初からそこを求めると、見つからない気がするので、「ちょっと気分が上がるかな」くらいのものから始めればいいのかな、と思います。

人のために何かをするのではなく、自分がしたいから自分がする、ただそれだけのことで何かをする。

加藤諦三『自分の居場所をつくる心理学』PHP研究所(1989)P.214 


 

おわりに

本記事では書ききれませんでしたが、本書では「ケチ」や「うつ症状」、「のけ者意識」などについても詳しく解説されています。

どれもこれも非常に納得感のある解説ですし、多少なりとも自分にも該当するところがあるので、「うわー(汗)」となりました。

深刻な孤独感ゆえ、非現実的な「自分にとって都合のよい居場所」を求めてしまいがちでしたが、結局のところ、だれかを巻き込んだりする必要はなくて、「自分が自分の居場所となる」ことを目指せばよいのですよね(でも、実際にはすごく難しいとも思う)。

いきなりは難しくても、徐々に「わたしはわたし」と納得できるようになればいいなと思います。


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