自分の行動力のなさについてずっと悩んできました。
行動するかしないか、それだけのこと、と頭でわかってはいるんです。
でもなぜか行動するときに強いブレーキを踏んでしまう。
関連の本を読みながら自分を見つめていると、行動力不足の大元には「不安」があることをはっきり自覚するようになりました。
不安自体をなくそうとするのではなく、不安はあってもいいから、対策できることは対策して、あとは気にしない、というのが一つの解のようです(どの本でもだいたいそう言っている)。
が、ブレーキを踏むのが癖になっていて、結局不安を優先してしまうこともままある、というのが現状です。
そんな私に勇気をくれるのは加藤諦三さんの本。
この本もやっぱりすばらしかった。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版
どんな本?
本書では、行動できない人、行動範囲を狭めてしまう人の特徴や心理が解説されているのですが、かなりの部分が自分に当てはまりました。
「……私のことが書いてある……」的な感じで呆然とするとともに、「そうなんです、そう」と頷いてもいました。
特にギクッとなったところをいくつか引用しつつ、感想を記していきます。
「くだらない」は機会を逃す
無気力な人はやる前から馬鹿らしいかどうかを決めがちである。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.182
……わ、わかる。
母や親戚も「結果出さないならゼロと同じ、むしろやっただけ損」みたいな考えの人でしたから。
私が好きなことや趣味に取り組もうとしても「金にもならんのに(あるいは社会的尊敬を得られないのに)、やっても仕方あるまい」と母や伯母はよく言いました。
最初は「悲しい……どうしてそんなやる気を削ぐようなことを言うのだろう」と落胆していたのですが、それを何度も繰り返すうちに、「なにも得られないのなら、やっても無駄」的思考は私の頭にベッタリと貼りつくようになってしまいました。
いつしか、何かに取り組む前に「これをやったら損か得か」ばかりを考えるようになってしまいました。
「好き」や「楽しい」を考慮することはほとんどありませんでした。
その結果、ことごとく進路選択を誤るはめに。
いくら「やれば得」なことであっても、苦手だったり、自分が心から納得してなければ続かない。
続けられたとしても苦痛を伴いますよね。
私にとっては、「得」でさえあればいい、というわけではなかったのです(得することが第一優先、という人もいるでしょうが)。
それに気づいたのはだいぶ後になってからのことでしたが。
「得や結果がすべてではない、楽しめるかどうかも実はとても重要」と理解していてもなお、いまだに「結果出せないなら、やっても無駄」は頑固に残っています。
たとえば、何か趣味を始めようにも「お金だけ無駄になりそう」と考えてなかなか腰が上がらない。
仮に始めることができたとしても「これで有名になれるわけでもないし」とだんだんむなしくなって、続けられないのです。
やはり能動的に「楽しむ」ことを怠ってきたのだと思います。
著者によれば、「くだらない」と思うことで、余計にくだらなく思えてくるそうです。
すると、活動量が下がっていくので、生きることにむなしさを覚えるようになる。
神経質な人も同じで、小さなことに迷っている(これがすでに気力が衰えている証拠)うちに面倒くさくなり、やらない。
小さなことをやらずに過ごすうちに、どんどん行動量が減って、結局すべて面倒くさい、となるわけです。
身に覚えがありすぎる(汗)。
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大きなことをやろうとするのは本当の自分がないから
「行動しようにも、そもそも何をしたいかわからない」というのもよく聞く悩みですよね。
なぜわからないかというと、遠くばかり見て、自分のできることを見ていないから。
ここには、自己中心性、幼稚、受け身、うぬぼれがあると著者はいいます。
小さなことは自分にはふさわしくない、と思っているからです。
近くにあることをきちんとやることができないのは、その人が自己愛におかされていて、他者を愛することができないからである。自己愛におかされている者にとって、近くにあるものは自分がやるのにふさわしい水準に達していないのである。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.342
これまたグッサリきました。
何をしたいかわからないときって、何か「すごいこと」をやってのけることによって自分の価値を上げたい、と思っているのですよね。
「すごいこと」でなければならないので、ほかの誰でもできるようなことでは気が済まないんです(書きながら己の尊大性におののいています)。
「すごいこと」の中から探そうとするから、実力や環境が伴わなかったりして、なかなか見つからないのでしょうね。
著者によれば、近くにある「すぐできること」すらできない人が、遠くのことをできるわけがない、といいます。
もうほんと、おっしゃる通りです(降参)。
小さなことを「くだらない」と見なしたことにより、大きなことや大事なことにも挑戦できなくなっているわけです。
挑戦できたとしても、小さなことをないがしろにして、継続という習慣を身につけていないので、すぐ挫折してしまうんですよね。
完全主義者は、自分に適したこと、自分にふさわしいこと、をやろうとするのではなく、他人を基準にしてものごとを考える。完全主義者は心理学的にこわくて失敗できないから完全であろうとするのである。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.475
うーむ、耳が痛い。
自分がないからこそ、他人の評価が必要になってしまうのですよね。
他人の評価なんて、そのときどきの状況で変わるでしょうし、アテにならないのに。
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行動力のない人は親との関係を振り返ってみるとよい
やる前から「くだらない」と決めつけてしまったり、完全主義になってしまうのは、子供の頃、親に甘えることができなかったから。
親にいつも気兼ねしていたからこそ、神経が過敏になってしまい、ちょっとしたことも過大に解釈してしまう。
たった一度の失敗も過大にとらえ、失敗を極度におそれているのでいつも披れているわけです。
自分が自分を嫌っている親は、その心の葛藤のはけ口を子供の失敗に見出す。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.1099
また、親に気兼ねしているからこそ、親の期待に沿えないときは罪悪感が生じますよね。
私も、子供のころからずっと悩んできました。
親と距離をとってもなお、いえ、とったからこそ、罪悪感は膨らんで苦しみました。
でもこの罪悪感って、よく考えればおかしいんですよ。
親の期待を言語化するとどうなるでしょうか?
「(親にとって)都合のよい人間であってくれ」
ではないでしょうか。
無茶な期待ですよね。
そもそも期待が間違っていますよね。
親とは別の人間なのだから。
まあ、精神的に未熟な親にとっては、子供は自分の従属物と(無意識であっても)思いこんでいるので、支配することに何の疑問もないのでしょうが。
親の期待、それ自体が間違ったものなのですから、自分が自分の主人になってよいのですよね。
親の目を気にして行動できない人は、ここに気づくことが第一歩となります。
自分の気持ちをもとに行動してよいのですよ。
誰かからの不当な要求には「ノー」と言ってよいのですよ。
まぁ、いざやろとするととても勇気がいりますが。
できそうな小さなことからでいい、と著者はいいます。
(参考記事)
行動できない人はどうしたらよいか
何かしようと思ったら、とにかくやる
やる前から「くだらない」と思ってしまう無気力な人も、やろうかどうか迷う神経質な人も、失敗を恐れる完全主義の人も、人生がつまらない人も、解決方法は同じ。
何かしようと思ったら、迷ったら、とにかくやる。
馬鹿らしく思えてもやり続ける。
これが抑うつ的になるのを防止してくれるそうです。
興味はやってこそ出てくるものなので、とにかく「やろうか迷ったこと」は軽い気持ちで始めてみることが大事。
※ただし、このとき、「上手さ・正しさ」は求めないこと。
結果を求めてしまうと、つまらくなったりするからです。
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自分を「使う」こと、それ自体が大事
大切にするということは使わないことではない。大切にするということは使うことなのである。体であれ、頭であれ、精神であれ、何であれ、大切にしたければ使うことである。自分を大切にするということは、自分を使うことである。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.490
自分を使ってこなかったから不安なのである。
加藤諦三『「行動できない人」の心理学』PHP研究所(2011)Kindle版位置No.496
自分を使わない、ということは、自分を犠牲にすることだと著者はいいます。
自分の経験に照らしてみても、すごく納得できてハッとなりました。
浪人生の頃、「受験生なのだから勉強以外はやってはいけない」と思いこんでいました(今思うと視野狭窄も甚だしいですが)。
そのように追い込むことで勉強に集中できるなら問題ないでしょう。
しかし、私は「受験生、しかも浪人生なのだから」と思えば思うほど、勉強に手がつかなくなりました。
何をやっていても感じるのは「ああ、もっと勉強すべきなのに、できない」と罪悪感とか焦燥感ばかり。
だったら肚を決めて勉強に集中すればいいのですが、勉強しようとすると「本当はもっと遊びたいのに」「あれもこれもしたいのに」と、不満タラタラになってしまうのでした。
(今思うと、親に気に入られるために、幼いころから抑圧して勉強してきたので、もはや意志の力も使い果たしていたのではないかと思います)
そんな不満タラタラな状態で勉強に集中できるわけもなく。
結局、ダラダラとテレビを見続けてしまったり、「あー、勉強しなきゃ、でも嫌だ」とか「勉強しない私はなんてダメな奴なんだろう」とひたすら自分を責め続けるということをしていました。
全く自分を使えていない、自分を犠牲にしている状況ですよね。
今思うと、本当に無駄なことをしたなあ、と思います。
テレビをダラダラ見続けるくらいなら、少しの時間でも、やりたいことをすればよかったんです。
そしたら満足して多少はやる気になったかもしれません。
あまりに熱中しすぎてしまうなら、それを生かす術を考えればよかったのです(私は飽きっぽい人間なのでそこは心配無用でしょうが)。
あるいは、いったん勉強から完全に離れて、進路を考え直してもよかったのです。
若い頃の数年なんて、今思えば大したロスじゃないからです(当時はとてもそうは思えなかったですけど)。
じっくり自分と向き合って「やっぱりもっと専門的なことを学びたいから勉強しよう」と心から思うなら、またやればよかったんです。
人より時間はかかるかもしれませんが、そのほうが後悔はなかったでしょう。
結局、自分を使わないまま過ごした結果、著者の指摘する通りの、うつ状態になってしまいました。
予備校もやめて、自宅にひきこもるようになってしまいました。
受験当日、なんとか会場まで行きましたが(休んでしまった試験もある)、コンディションは最悪です。
胃薬ばかり飲んでいました。
そもそも、やっていたのは「勉強しなきゃ、でも嫌だ」という問答や「自分はダメ」という自責でしたので、勉強自体ほとんどできていなかったのです(でも、当時の自分は「苦しい=努力している」と勘違いしていました)。
当然、結果はそれなりのものでした。
かつての自分に声をかけるなら「一年や二年遅れてもいいから、いったん、立ち止まりなさい。自分と向き合いなさい。親の目を気にして進路を選ぶのではなくて、自分がどうしたいかを考えなさい」と言いたいです。
それこそが、当時の私にとって「自分を使うこと」だったのではないかと思います。
親子関係がゆがんでいることや、自分に健全な精神が育っていないことに気づける最初のチャンスだったと思うのです。
とはいえ未成年でしたし、経済面でも親から解き放たれることは難しかったでしょうから、仕方なかった部分もあるとは思います。
それでも、「等身大の自分をしっかり見つめる」ことくらいはできたのではないか、と思います。
それをきっかけに、少しずつ変われたこともあったかもしれません。
私は私から目を逸らしたがために、その後10年も「苦しい」「生きるのが辛い」という人生を送ることになります。
(今思うと、若くて楽しいはずの時期を完全に棒に振りました)
そう考えると、「どうしようもなくうまくいかない」ときって、自分を見つめ直す時期なのでしょうね。
ピンチはチャンスといいますが、まさにそんな感じで。
「うまくいかない」のをそのままにしたり、なんとなくその場を乗り切れたとしても、その何年後かにまた同種の「うまくいかない」がやってくるのだなあ、と自分を振り返ると思います。
(自分から目をそらないことの大切さが書かれた本)
少し話が逸れたかもしれませんが、抑うつ的にならないような、不安にならないような、そういった自分の使い方を意識することが大事だな、と改めて思いました(自戒を込めて)。
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おわりに
自分のできることをどんどんやっている人は自信に満ちている、と著者はいいます。
私の周りを見回しても、確かに、行動力のある人は生き生きしています。
また、自分から「ちょっとした楽しみ」を見つけるのが上手です。
さらにそれを人と共有するのも上手いです。
私などは共有したくても「相手にとってはつまらないかも……」と思って閉じてしまうので反省です。
つまらないかどうかは相手が決めることですしね。
まずは、「やるかどうか迷ったら、やる」。
これを意識していこうと思います。