AC回復のきろく

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

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〈AC回顧録・幼少期〉ひらがなをひたすら書き続けることの虚しさ


過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。

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すでに書けるひらがなを心を無にして書き続けた記憶

私は幼稚園に入る前から幼児教室に通わされていました(→ 幼児教室に通わせたい母と反対派の父(ダブルバインド)

自ら望んだわけでもない幼児教室に真面目に通っただけでも十分偉い(と今は思う)のに、それだけでは母は不安だったようです。
それと前後して某学習教室(Kから始まるやつです)も追加されました。

Kから始まる某学習教室、やったことがある方はわかると思うのですが、「くり返し」が特徴ですよね。
似たタイプの計算問題をひたすら解き続ける、みたいな。

確かに大人になってみると、「繰り返し練習する」ことの重要性はとてもよくわかります。だから、某学習教室のやり方自体は「なるほど、理に適っているな」と思います。

でもですね。
「くり返し練習」の重要性がわかっていなかった3~4才頃の私にとって、「すでにマスターしたひらがなを延々と書き続ける」ことは、かなりの苦行でした。

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こういうイメージのやつ

 

「わたし、もうひらがなぜんぶ書けるんだけどな……」
「(お習字ならまだしも)すでに書けるひらがなをひたすら書きつづけて、なんの意味があるのだろう」
「でも、やらないとお母さんのきげんがわるくなるからな」
「おこらせるとわたしは捨てられるからな」
というようなことを思っていました
(>>>母の機嫌を損ねると「あんたを置いて出ていくんだからね」

「これ、何の意味があるんだろう?」と疑うことは、自分としても辛かったので、心を無にしてひらがなを書き続けたのをよく覚えています。

すると、その様子を見ていた某学習教室の先生が「この子は集中力がすごい」的なことをおっしゃいました。

母は喜んでいましたが、私は心の中で
(先生、そりゃそうだよ~、このプリントをうまくやるかどうかはわたしの命にかかわっているのだもの)
と思ったのもよく覚えています。

母は私の気持ちなどはどうでもよかった

母にとっては、私に向いているとか向いていないとか、そんなのはどうでもいいことなんです。
娘に結果を出させ、「優秀な娘を育てた母はすごい」と思われたいだけなので。
だから娘が苦しかろうがなんだろうが、結果さえ出してくれればどうでもいいわけです。

結局私は「もう嫌だもう嫌だ」と思いながら、断続的にではありますが、中学くらいまでずっと、某学習教室のプリントをやっていたように思います。

とにかく嫌々やっていたので、ほとんど記憶がなく、意味もなかったような気がします(※嫌々やらされていたことが問題であり、某学習教室の教材を批判しているわけではありません)

しまいには、「何かを繰り返し練習すること」それ自体に拒否感を覚えるようになってしまいました

(その結果、いまだに反復練習が苦手で、いろいろ困っています。できないところを繰り返しやること自体はとても大事です)

嫌々やると「気力」が削がれることが問題

母からすれば「嫌々でもやったもん勝ち」と思っていたでしょう。
そういう面もゼロではなかったのかもしれません。

でも、それ以上に失ったものがある、と私自身は感じています。

なぜかというと、私にとっては、気力を消耗しただけだから。
「イヤなことを無理やりに頑張る」ということは、想像以上に気力を使うものです。

さらに、イヤなことに気力を消費した結果、他のことに使う気力もなくなってしまったのです。
やりたいことに使う気力がないので、人生をつまらないものにしてしまうのです。

子どもの頃から、いや、子どもなのに、「生きるのがつらい」と感じていたのは、「イヤなことを遂行するために、気力(意志の力)を使ってしまっていたから」というのが一つの要因としてあったのだろうと思います。

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【親を反面教師に】自分に合った方法やペースを選ぶことは大事

スポーツにしろ、勉強にしろ、楽器にしろ、「無理やりにでも練習させる」というスパルタ方式は、確かにある程度のレベルまでは、伸びるのだろうと思います。

けれども、「ある程度のレベルよりも」のことを考えると、スパルタ方式はむしろ逆の方向に作用するのではないか、と思うようになりました。

「嫌々やらされていた」「失敗すると異常に怒られた」など、イヤな記憶が多いと、深層心理では「もうやりたくない」となってしまうからです。

練習を重ねながらも、結果を求めながらも、「もう解放されたい」気持ちのほうが強くなるのだろうと思うのです。

「解放されたい」のだから、「うまくなろう」「できるようになりたい」という前向きな気持ちも湧かず、ただ「心を無にして言われたことをこなすだけ」になってしまいます。それでは伸びるわけがありませんよね。

これがよくある「神童だったのに大人になるとパッとしなくなる現象」の背景の一つなのではないかと。

もちろん、本人が本当にやりたくて繰り返し練習しているのなら問題はないのです。

親の権力を利用して「無理やりにやらせる」ことが問題なのです。

そういう親は必ず言います「無理にやらせてるんじゃない、本人がやりたいと言っている」と。

でもそれは、「子どもが親の顔色を伺っている」に過ぎないのですよね。
顔色をうかがわせている時点で、子の本心からずれていることを分かっていないのですよね。

私のなかには、母の亡霊に憑依されたスパルタキャラがいて、いまだに「結果出せ結果出せ」と追い込んできます。

それで、根をつめて、すぐに嫌になる、これをもう、何度も繰り返しています。
長期的に、負担にならないペースでコツコツやる、ということがとても難しいのです。

だからこそ、追い込まれそうなときは「ちょっと立ち止まろう」「ゆっくりでいい」「長期的にできるペースで」と意識的に思うようにしています(でも、難しい)。

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