ししもとのAC回復ノート

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

ブログ整備中につき、一時的に非表示にしている記事がございます。少しずつ再更新してまいりますので、またご訪問いただけますと幸いです

〈AC回顧録・4~5才〉「うちの子は主役がやりたいんです」とすぐ幼稚園に乗り込んで行ってしまう


過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。

母はすぐに幼稚園に文句を言いに行ってしまうので、私は先生と母の間で板挟みになり、辛かったという話です。

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娘が主役でないと気が済まない

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私の母は「とにかく一番目立つものをやれ!!!!!」という考えの人でした。

運動会なら行進時の指揮者。
音楽会なら一番前の列に並ぶ小太鼓。
劇ならば主役。

しかし、私はおとなしい子どもでしたし、家庭内で争いごとばかりだった影響で「誰かと役を取り合って揉めるくらいなら辞退したほうがマシ」というタイプでした。

でもまあ、主役級の役に一応は手を挙げないと、母の機嫌が悪くなるのは目に見えています。
なので、一応、「〇〇がやりたい」と先生に伝えはしました。

ですが、先生とて、私の希望だけを聞くわけにはいきません(当たり前)。
だいたい無難な脇役に落ち着きます。

私としては「あー、またおかあさんが気に入らないだろうなーめんどうだなー」というのはありましたが、「ま、いっか」という感じでした。
どの役だって、それなりに楽しめると思っていました。

しかし、帰宅して母にそう報告すると、もちろん母は気に入りません。

気に入らないだけならまだしも、PTAの用事にかこつけて、幼稚園の園長先生のところに乗り込んで行ってしまうんですね……。

普通なら、「うわー、またあのお母さん、文句言いに来たわー」で迷惑がられるだけの話かもしれません。
ですが、母はPTAの副会長をやっていたので、幼稚園側も多少は気を遣わざるを得なかったようです。
(母は権力行使のために立候補したのだろうと思います。自分で動くのはイヤなので、会長でもなく、かといって一般役員だと幅をきかせられないので、副会長なのです)

園長先生も、完全無視というわけにはいかなかったようで、担任の先生にそれとなく事情を聞いてくれたのでしょう。

その結果、翌日担任の先生が苦虫をかみつぶしたような顔で私のところに聞きに来ます。

たとえば、
「ねえ、あなた、太鼓がやりたいの?」と。
私はうなずきますが、先生は「でも、もうちょっと背の高い子がいいんだよね」とか「もうちょっと活発な感じの子がいいんだよね」と言います。
子どもでもわかるほど、明らかな「辞退してくれ」雰囲気でした。

私は(あーー、お母さんまた園長先生のところにに言いに行ったんだ……先生も困ってるじゃないか……)という罪悪感に襲われ、「じゃあ、ピアニカでいいです」と言うしかありません。

先生は保護者にケチつけられてげんなりしていたでしょうが、それが明らかに伝わってきて、「先生に好かれていないなあ」と実感したことのほうが太鼓云々よりも辛かったことを覚えています。

そして、担任の先生が「本人がピアニカでいいと言った」と園長先生に報告→母に報告が入り、「あんたっ! ピアニカでいいって言ったの!?」と怒られるのは私。

先生は先生で困惑していたし、どうしようもないのに。

そして母は、担任の先生の悪口を言い始めます。
「お気に入りの子ばっかりかわいがってる!」と。
(まあ、そりゃ人間だから多少はあるよな)と思いつつ、先生にかわいがられているクラスメイトのことや、担任の先生のことを悪く言われるのが悲しかったです。

ですがその後、「ふん、今に見てなさい」と言って、珍しく母が静かになったんです。

本番が近づいても、ピアニカがどうとか何も言わない。
普段なら文句タラタラのはずなのに。

子どもながらに「めずらしいな……でも、さすがにおかあさんも諦めたんだ、よかった」と思っていました。

ですが、このまま引き下がるような母ではありませんでした。

音楽会当日、脇役風情のピアニカが、なぜか舞台最前列の配置になっていました。

たしか、リハーサル(か、その前の練習)まではピアニカが最後尾だったので、本番直前に変わったのだと思います。

母の放った「ふん、今に見てなさい」は「こういうことだったのかい!」と驚きつつも呆れました。おそらく母がまた園長先生に圧をかけたので、配慮せざるを得なかったのでしょう。

最前列で(当時は脇役風情だった)ピアニカを吹くというシチュエーションに驚きながら、「園長先生も、担任の先生も、大変だっただろうな……」と思いました。

これは音楽会の例ですが、他のイベントでも圧をかけていたのだろうと思います。

もちろん、毎回主役なんてことはありませんでしたが、主役に選ばれた子がセリフが覚えられないなどで「辞めたい」というのが何人か続くと、「じゃあ、あなたやる?」的に配慮してもらっていたような気がしますので。

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【親を反面教師に】自分の劣等感は自分で面倒見る

いやほんと、幼稚園の先生方すみませんでした、というのがまず最初の気持ちです。

現在でも、このくらいのことは多々あるでしょうから、保育士さんや幼稚園・学校の先生って大変だな、と改めて思います。


母は、「こんなに出来る娘を育てた自分(母)は偉い」という謎の理論で、娘を使って己の劣等感を癒そうとしました。
自分が頑張るより、口だけ動かすほうが楽だったのでしょうね。

でもこのやり方って、誰も幸せにならないんですよ。

まず、娘は、本人の意志を無視されているので辛いですよね。
幼稚園の先生だって、一生懸命頑張っているクラス運営にケチをつけられてたまったもんではありません。
(というか、先生からすれば、間接的に「うちの娘を一番にしろ!」と言われているわけです。子どもたち全員の面倒を公平に見るのが仕事なのだから、そもそもの前提とかみ合わなくて矛盾を抱えますよね)

母は、娘が成果をあげることで、一瞬はスカッとしたのかもしれません。
でも、それで母の劣等感がなくなるかというと、なくなりませんよね。
母自身が直接成果を出したわけではないのだから。

だからこそ娘に対して「もっともっと」「まだ足りない、まだ足りない」になったのだろうと思うのです。
母からの「もっと頑張れ」は「もっと私(母)の劣等感を癒してくれ」ということだったのだろうと思います。

そして、何十年にもわたる「もっともっと」に辟易した娘に愛想をつかされる。

母の投げたブーメランは、長い時間をかけて特大ブーメランとなり、母のもとに還っていきました。

母に必要だったのは、母の抱える劣等感を母自身が癒すことだったのだろうと思います。
別の言い方をすると、母自身の辛い感情を、誰かになんとかしてもらおうとしたのが誤りでした。

ですがまあ、女性が自立しづらかった時代背景もありましたし、母は生まれつき考え事が苦手でもありましたし、ADHDなどの概念も広まっていませんでしたから、「仕方なかった」ことなのだろうと思います。

母のことを書けば書くほど、ますます「仕方なかった」に収束していってしまいます。
仕方なかったにせよ、私の苦しみがまるごと消えるわけではありません。

けれども、私が幸運だったのは、人生が行き詰まったときに、「一旦生き方をリセットしないと、人生がとんでもないことになるぞ」と気づけたことだと思います。

父や母が、「悪いお手本」を直に見せてくれたことも、影響しているかもしれません。
「あんなふうにはならないようにしよう」と思えましたから。

「親は反面教師」と心から思えるようになったことが、ここ10年くらいの私の成長かなと思います。

こうしてこまごまと記事にしていくことも、客観視を進め、かなり効果があったなと感じています。

人によっては「いまだに過去のことを云々言うなんて」「過去は変えられないのに」とおっしゃる人もいるでしょう。

けれど、私にとっては、過去を取り出して眺め直すことが、重要なプロセスでした。
過去を覆っていた悲しみをはがすと、芯あるいは真のようなものが見えてきました。

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