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「ワガママ」と「自分を大切にする」の違いを考える【3】 - 誰かにねぎらってほしいのは、自分自身によるねぎらいがまだ足りない

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前回の記事では、「ワガママ」と「自分を大切にする」の違い『「会社行きたくない」と泣いていた僕が無敵になった理由』からの引用文を参考に考えてみました。

「ワガママ」と「自分を大切にする」の違いをおさらいしておくと、

【自分を大切にする】
→ネガティブな感情も含め、「気持ち」の存在を自分自身で認め、「不安に思っているんだね」「大変だったね」などと自分に声をかける

【ワガママ】
→「私こんなに大変なんだから、労ってちょうだい!」「俺の大変さがわからない奴はクソ」という言葉や態度によって、周囲の人から肯定を奪おうとする

ということでした。

とはいえ、ですね。
こんな記事を書いている私自身こそ、お恥ずかしながら「私こんなに大変な思いで生きてきたんだから、労ってちょうだい」という雰囲気を醸し出してしまうことがいまだにありまして……(反省)。

これはちょっとまずいなという自覚があり、改めて自己肯定感を育て直そうとしている最中です。

本記事では「自分の気持ちを認める練習」について、私の実践例を紹介したいと思います。

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「私大変だったんだ(からねぎらって)」はうっかりするとやってしまう

さすがに私も、「こんなに大変な思いで生きてきたんだからねぎらって!」と直接言葉にすることはもちろんないのですが。

話の流れで子ども時代の話になったりするとですね。
過去を憂えてしまうというか、ついネバっとした口調にはなってしまうんですね。

同じことを話すにしても、「家庭環境イマイチで、その選択肢なかったんですよ~、いやぁ残念!」とカラッとしたトーンで言えばいいのに、「母親が過干渉で……私にはそんな選択肢すらなくて……見えない首輪つけられてて(ブツブツブツブツ、うらめしやあ)」みたいな、恨み節風になってしまうんです。

こちらの話をそこそこ理解してくれるような相手(相手の育った家庭にもそれなりに問題があったとか)だと、余計にブツブツ言ってしまうのです(わかってくれるはず、という甘えがあるのでしょうね)。

しかも、相手よりも自分の家庭のほうが壮絶だったと勝手に認定して(※相手の人生を歩んできたわけでもないのだからわからないのに!)、「私の方が大変(だから同情してほしい)」的な雰囲気にしてしまうことがあるんですよね……(猛反省)。

でも、これって、「相手から肯定を奪おうとしている」状態ですよね……。
「私かわいそうアピール」からの「同情」「共感」を引き出そうとしている。
つまりは、前回の記事で考えた「ワガママ」に該当する行為なわけで(ギャー!恥)。

さらに悪いことに、「私のほうが大変マウンティング(※)」までしているという……。

(※「俺昨日〇時間しか寝てない」「いや、俺はもっと寝てない」とか「うちの部署の上司はダメ」「そんなのまだマシじゃん、俺なんて……」と繰り返される現象を勝手に命名。どちらかが折れるまで終わりがないし、絶対自分はやるまいと思っていたけど……家庭環境のことに関してはやってしまっていた……愕然)

たまに、であれば「こんな大変なこともあった」話もいいですけど(相手に心を開いている証拠でもありますので)、会話の度にネバっと感、うらめしや感を出してしまうと、相手に負担がかかりますよね(そもそも内容自体が重いし)。

もちろん、相手が「聞きたい」「聞かせて」と望んでくれているなら話しても全然かまわないのですよ。

ただ、「あんまり聞かされすぎると辛くなる」というのが(カウンセラーなどプロの人を除いては)、現実的なパターンではないかな、と思います。

自分自身によるねぎらいがまだ足りないと気づいた

相手に「ねぎらって」と求めてしまうということは、自分自身によるねぎらいがまだ足りないということ。
私の過去はまだくすぶっているということ。
今の自分が過去の自分に「大変だったね」と声をかける必要がまだまだあるということ。

そこで、過去の辛い思い出を一つずつ取り出し、「ああ、私、けっこう大変だったんだな」と思う作業をこのブログ上でしています。
(例>>>【もくじ】私はいかにしてアダルトチルドレンになっていったのか 【体験談】


これらの記事は、自己治癒目的の面が大きいです。

自己治癒なのであれば、わざわざ公開する必要もないのですが、途中でやめてしまわないように、今は公開にしています。

何記事かは、「私もそうだった~」と共感したり、励みに感じてもらえるものもあるのでは、という気持ちもありますし。

また、公開することで「ここまで悩んだ状態からでも自分を癒していけるんだ」と(あくまでもたった一つの例にすぎませんが)お見せできたらいいかな、とも思っています。

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自分をねぎらうことも長期戦

自分の気持ちを押し殺してしまう、ということは、きっとどこかで、そうせざるを得ない理由があったのですよね。

おそらく、身近に批判的な人が多かったのでしょう。
気持ちを殺さないと、日々を生き抜けなかったのでしょう。

そのときに殺した気持ちは、おそらくまだ死んではいません。

心のどこかで、すくいあげられるのを待っているのだと思います。

だから、聞いてくれそうな人がいると、ここぞとばかりに「私大変だったんだ」とアピールしてしまったり、恨み節がうっかり出てしまったりするのかなと、考えています。

ならば、その、仮死状態の気持ちを、心のドロドロ沼から、一旦明るい場所に取り出し、泥をぬぐってやるのが必要なのだろうと思います。

泥をぬぐったら、本来そこにあったはずの感情が見つめ直す。
「過去の私は、本当は、そんなふうに感じていたんだね」と。
「感じないようにするの、大変だったよね」と。

誰かに泥をぬぐってもらうのももちろん良いですが、相手が泥だらけになってしまうのも困る。

「私の泥、ぬぐってよ!」と度が過ぎれば、我々がずっと恐れてきた「(本物の)ワガママ」になってしまうのかもしれません。
そうすると、せっかくの人間関係が微妙になってしまいます。

気の合わない相手なら微妙になってもかまわないかもしれませんが、親身になって話を聞いてくれた人や、親切にしてくれた人であれば、より大事にしたいものです。

そのために、人ともうまくつきあっていくために、自分で自分をねぎらっていくことが大事なのではないか、と今は考えています。

ひと昔前の私なら、「自分で自分をねぎらうなんて笑」「ただの自己満じゃん笑」などと思っていたと思います。

でも、そうやって自分をあざ笑って、必要以上に厳しくしていたからこそ、人生が行き詰まったのだろうと今は思います。

できなくても焦らない

ここでもまた注意点があって、「自分で自分をねぎらおうとしているのにできない(焦)!!」となると、逆効果かと思われます。
自分でねぎらう習慣のなかった人が、いきなりやろうとしても違和感が強くて難しいですよね。

そんなときは「まだうまくできないと感じるな。そりゃそうだよね、今までやってこなかったもの」と「できないことも認める」でよいのかなと思います。

人間ですから、うまくいかないときもありますし、「できるときだけでいいから、できることをやろう」という心構えでいたいですね(自戒を込めて)。

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