前回の記事で書いたように、私は、 自分の気持ちに従うこと、そのすべてが「ワガママ」だと思い込んでいました。
自分の気持ちを大切にしないと、自己肯定感がどんどん低下していきました。
自己肯定感が低いと、人生がなかなかうまくいきません。
とはいえ、「自分を大切にする=ワガママ」と刷り込まれてきた人間としては、「ワガママ」と「自分を大切にすること」の違いって、いまいち明確にはわかりませんよね。
そこで、本記事では、『「会社行きたくない」と泣いていた僕が無敵になった理由』(全体的な感想記事はこちら)を参考に、「ワガママ」と「自分を大切にする」ことの違いについて、考えていきたいと思います。
「ワガママ」と「自分を大切にする」の違い
「ワガママ」とは、他人を使って自分を満たそうとすること。
「自分を大切にする」とは、自分で自分を満たしてあげること。
【悲観】や【反抗】の態度で、他人に「わかってクレクレ」と肯定を奪いに行くのがワガママで、自分で自分をわかってあげることが自分を大切にする、ということです。
『「会社行きたくない」と泣いていた僕が無敵になった理由』Kindle版 位置No.573
この引用文をベースに、詳しく考えていきます。
「ワガママ」は、自分のために他人をいいように使うこと
引用したように、「ワガママ」は「自分を満たすために他人を使う」、というのは「たしかに」と思いました。
(前回記事の冒頭エピソードに一旦戻りますが)
私に「ワガママ娘!」と言い放ち、私を思い通りに操ることで、己の劣等感を癒そうとしていたのは母、つまり「ワガママ」なのは母のほうだった、ということになります。
「ワガママ」と指摘してくる人こそワガママだったりすることは結構よくあるんですよね。
ですから、誰かに「それはワガママ」と言われたら、一旦立ち止まって、「ワガママだと指摘することによってこちらをひるませ、思い通りに動かそうとしてはいまいか?」という視点を持ってみてもいいのかもしれませんね。
(※本当にこちらがワガママと気づいた場合は反省する)
正しさの押し付けも「ワガママ」の一種では?
また、「他人を使って自分を満たそう」とまでは思っていなくても、「(これまでに俺/私の人生においては許されなかった行為だから)それはワガママ」と断じてくるタイプの人もいますよね。
たとえば、「食事を残すのは絶対にダメ」という教育(しかもかなり強めのやつ)を受けてきた人のなかは、小食の人に対しても「軽々しく残すなんてワガママ!」と言う人がいます。
これも、
「俺/私は残すの許されなかった(んだからお前も残すなよ)」
「軽々しく残されると俺/私の過去の苦労が否定されるから許せない」
ということではないかと思うんです。
一見「正しい」「常識」「マナー」を言っているようですが、あまりに押し付けてくる場合は「他人を使って自分を満たす」の一種ともいえるのではないか、と私は思います。
(日本はまだまだお残しNG信仰が強いから、こんなことを書いたら怒られるかな……。もちろん私とて、お残しはしないほうが好ましいというのは理解できます。ただ、無理に食べて体調を崩したりトラウマになっても相手は責任を取ってくれませからね。何と言われようが、自分の責任をとるのは自分であることは忘れずにいたいですね)
ともあれ、「それはワガママ」という指摘は、相手の都合によるものであることが意外と多いので、言葉のダメージを直に受ける前に、冷静に考えたいものです。
じゃあ、「自分を大切にする」とは?
「ワガママ」は他人を使う、と理解したうえで、「自分を大切にする」についてもう一度引用します。
自分で自分をわかってあげることが自分を大切にする、ということです。
『「会社行きたくない」と泣いていた僕が無敵になった理由』Kindle版 位置No.573
過去の私の例(前記事参照>>> 自分の気持ちに従うこと、そのすべてが「ワガママ」だと思い込んでいた )でいうと、「私はダメだ、ダメだからこそ尋常でないほどに頑張らねば」とムチを打ち続けるのではなく。
「おや、私、自分の価値をひどく疑ってしまっているんだな」
「価値がないとこの世から弾き飛ばされると思っているんだな」
とまずは不安な気持ちの存在を認めることが、自分を大切にする行為だった、ということですね。
「私、ずっと辛かったんだな」
「私、そんなにも自分を追い込まずにはいられない環境で生きてきたんだな」
「ほんと、一人でよく頑張ってきたもんだ」
こういった声を、自分で自分にかけることは決してワガママではないですよね。
別に声に出さなくてもいいし、紙に書くのでもいいのだし。
逆に、周囲の人に「私こんなに大変なんだから、労ってちょうだい!」「俺の大変さがわからない奴はクソ」と言葉や態度で求めるのは「ワガママ」となりますね。
自分が求めているものは、自分で自分に与えるのがポイントということですね。
でも、親から共感される経験が不足していると、「(自分じゃなくて)誰かに共感されたい」という気持ちが強いのですよね。
それは私自身もすごくよくわかります。
しかし、私の経験上、「誰か」を求めてさまよっていると、変な奴(こちらの弱みにつけ込みたい人とか)に捕まりやすいんですね。
弱みにつけこんで利用してやろうという目的がある人は、目論見があるので、一見「超優しい人」を演じることもできるんですよね。
徐々に真相が露わになって、「そういうつもりで私に近づいてきたの!?」的な、余計に傷を深くする可能性がけっこう高かったりします。
もちろん、「共感してくれる誰か」を求めた結果、良い友人やパートナ―に巡り合う可能性もあるでしょうが、ある程度「運」も関与してくるので、不確定な部分も多いですよね。
となると、一番確実なのは「自分」だと思うのです。
自分が一番長い時間、自分のそばにいるわけですから、いつでも、何時間でも対応できますし。
相手に「愚痴りすぎかな?」と遠慮する必要もないですし。
せめて自分くらいは、自分にやさしく在りたいですね。
ポイントまとめ
【自分を大切にする】
→自分自身が自分の気持ち(感情)の存在を認め、「不安に思っているんだな」「悲しいと感じているな」と認識する
【ワガママ】
→周囲の人に「私こんなに大変なんだから、労ってちょうだい!」「俺の大変さがわからない奴はクソ」と言葉や態度で肯定求める
つづく
「よし、自分を大切にするということ、わかったぞ」と言いたいところなのですが……。
こんな記事を堂々と書いておきながらですね。
うっかり「私、子どもの頃大変だったの(だからねぎらって)」という雰囲気を醸し出してしまうことが、いまだにあるんです……。
いろんな本を読んで、思考を整理して、ブログ記事にもして、だいぶ癒されたと思っていましたが、まだ友人との会話の中で、うっかりねぎらってもらおうとすることがありまして。
私の場合はすでに10年くらい自分に向き合ってきたので、「さすがにこのままだとまずいかも」と思い、対策を考え、実践していくことにしました。
詳細は次の記事で紹介します。
>>>「ワガママ」と「自分を大切にする」の違いを考える【3】 - 誰かにねぎらってほしいのは、自分自身によるねぎらいがまだ足りないと気づいた
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