理解しようとしているのにすれ違う
先日、友人と話していて、「おや」と思うことがありました。
その友人はとても気を遣うタイプで、こちらの話を否定せずに聞いてくれる人。
適当に相槌を打つのではなく、話をよく理解してくれようとするので、話の内容をその人なりの別の言葉に置き換えて「うん、わかる、こういうことだよね」と反復してくれます。
意見が違うこともあるでしょうに、基本的に共感してくれ、聞き上手な人です。
それだけでもう「ありがたやありがたや」なのですが、だからこそ(?)妙な違和感を感じることも。
私が言ったことを彼女なりの言葉で反復してくれるとき、私の想定しているニュアンスからずれることがあります。
私の言葉を一旦彼女の中に取り込んで、彼女の中にある観念とか価値観によって理解あるいは納得して、もう一度アウトプットするわけなので、当然といえば当然なのですが。
私「こないだこんなことがあってさ、かくかくしかじか……(この内容をAとする)」
友人「ああ、A”””ね」
私「(微妙に違うような気もするけど……でも、理解してくれようとして言い回しが変わってるわけだし、まぁいいか)う、うん、まぁそんな感じ」
という状況です。
AがA'になるのは許容するとしても、A"""くらいになると説明し直すか迷うところです。
具体例を挙げてみます(※フィクションです)。
例えば私が「数年前、無性に人間関係を広げたい時期があったんだ」と言ったとします。
言葉通り、私はただ「人間関係を広げたい」と思っただけで、実際にはのうのうと暮らし、広げようとすらしなかったのですが、彼女の世界では「人間関係を広げようとあらゆる努力(行動)をしたが、成果が得られなかったらしい」と解釈されている。
そんな種類のズレです。
このようなズレは、逆の場合、つまり私が彼女の話を聞いているときも、同じように生じているのだろうと思うのです。
なぜだろう、と思いました。
友人のほうが少し若いけれど、世代間ギャップがあるというほどでもない。
バックグラウンドが異なるとはいえ、基本的性格は似ているところがあるような気がする。
しかも、お互いが話を理解しようと心がけている。
なのに、微妙にすれ違っている感じがするのはなぜだ、と。
そんなモヤモヤを抱えていたとき、駅ナカの本屋で発見しました。
養老孟司、名越康文『他人の壁』SBクリエイティブ(2017)

「他人」の壁 唯脳論×仏教心理学が教える「気づき」の本質 (SB新書)
- 作者: 養老孟司,名越康文
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わからないのは前提が違うから
頁をめくることわずか11ページ、養老さんのコメントにハッとなりました。
猫が苦手な人に、猫のおもしろさを延々と語っても永遠に伝わらない。なんでこの人、せっかくこんなに話をしているのに、言葉を尽くしているのに、反応が薄いんだろう、こっちの言っていることが心に刺さらないんだろうって。当たり前なんです。猫に関する前提が違うんだから。
引用元:養老孟司、名越康文『他人の壁』SBクリエイティブ(2017)p.11
た……たしかに。
私は猫嫌いというわけではありませんが、猫好きでもない人間。
猫の話を熱心に聞かされても「ふうん」「へえ」と思う程度。
飼ったことがないのでよくわからないし、せいぜい想像力を働かせる程度。
それも所詮は想像なので、実際とはかけ離れていたりもするでしょう。
猫好きの人とはかなり状況が違うわけです。
このような前提の違いが私と友人の間にもあるのでしょうね、意識していなかったけど。
先の具体例でいえば、「人間関係広げたい」と思った場合
私:思っただけ(行動しないのがいつものパターン)
友人:思うだけでなく、実際に行動する(行動するのがいつものパターン)
なのでしょう。
真面目に聞きすぎてもすれ違うことがある
おそらく、私も友人も、ちょっとしたズレを感じているので、ますます「ちゃんと聞かなきゃ」という状況になっていたと思います。
しかし、ここにも罠が。
本の中で名越さんは「あまり正面から真面目に聞いていると、お互いの間に誤解が積み重なっていくことがある」とおっしゃっています。
決していい加減に聞くといっているわけではなくて、相手も自分の言い分を聞いてほしさのあまりに、どこかに演出が入ったり、自分が信じ込んでいる「別の自分」を、一生懸命に表現したりするわけです。気をつけないと、そうした壮大な演出の中に、僕自身が取り込まれていってしまう。
引用元:養老孟司、名越康文『他人の壁』SBクリエイティブ(2017)p.83
なんかこれ……わかるぞ。
うっかりちょっと盛ってしまったりするとき、ありますよね。
一方、聞く方も、話を理解しようとすればするほど、自分ごとのように考えてしまい、自分フィルター通しすぎて、結果的にずれていくことも。
名越さんは真面目に聞きすぎてもすれ違うことに気づいて以来、カウンセリングのやり方を変えたのだとか。
あえて聞き流すような時間を設けて、「今だ!」という瞬間に言葉を発する。
そして、ある瞬間に、うまく言葉で表現しづらいのですが、「あ、今かな」と、催したときにだけ、こちらから言葉をバッと吐くんです。結果的に一番それが効率的で、しかも相手の気持ちを不必要に侵食しないで済むのかなと今は思っています。
引用元:養老孟司、名越康文『他人の壁』SBクリエイティブ(2017)p.84
「あ、今かな」が素人には難しいでしょうが、もしこれができたら確かに一番良いなと思いました。
ちょっと違うんだよな……と相手や自分をモヤモヤさせることもないし。
今まで、「理解しているよ」というメッセージのつもりで、私自身も「こういうことだよね?」と確認していましたが、あまり焦らずに聞いていくというか、すぐに理解しようとしないというか、もっとゆったりした姿勢でもいいのかな、と思いました。
ともあれ、どんなに仲がよかろうとも、人それぞれ前提が違うのだから、わからなくて当たり前、ということを忘れずにいたいと思います。
おわりに
本書によれば「わかる」ということは「思考」ではなくて感覚的なことなので、「感覚」を磨け、とのことです。
感覚を磨くためには、
「森へ行け(養老さん)」
「寺へ行け(名越さん)」
ことあるごとに森へ行くこと、寺に行くこと、が推奨されていました。
本記事では触れませんでしたが、少子化についての解説も興味深かったです。
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わかり合うためには伝え方、言い方も大事。