ししもとの読書ノート

生きづらさの軽減をめざして

どんな私で生きていくか、は自分で決められる |感想『超解釈 サルトルの教え』

はじめに

サルトルの名は知ってはいたけれど、その哲学書は難しそうで、ずっと敬遠していました。

アドラーなどは一般向けの書籍もよく見かけるけれど、サルトルといったら岩波文庫くらいしか目にしたことがなかったような…。

この度、読みやすそうなサルトルの解釈本を見つけたので、早速手に取りました。

堤久美子『超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方』光文社(2018)

超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方

超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方

 

 

 

どんな本?

著者さんは25歳のときに、人生の師(大先生)と出会ったそうです。
その大先生の教えというものが、サルトルの哲学に基づいており、それ以来サルトルに惹かれ、個人的に研究してきたとのこと。

本書では、著者と著者の大先生を足した存在を「サルトル先生」と呼び、悩みを抱えてやってきた人々の相談に乗る、という形で、サルトルの教えを解説しています。

よかったところ

事実と解釈を分けて考える

何かが起こったとき、私たちは事実と解釈を混同しがち。

例えば、部下が一週間休んでいる。自分(上司)がキツく言い過ぎたせいで、ウツ状態になってしまったのではないか、とか。

この例だと、事実は「部下が一週間休んでいる」ということだけで、「自分がキツく言い過ぎたせいでは?」というのは解釈です。

休んだ理由の本当のところは、本人に聞いてみないとわからないわけです。
ウツ状態かどうかすらわからない。

なので、今度本人に会ったときに聞いてみるしかない、と(本書に登場する)サルトル先生は言います。
(聞き方とか気を遣いそうですし、グイグイ踏み込んでもいけないし、実際は難しいところがありそうですが…まぁ、言葉を尽くして心配している旨を伝え、時間をかけて丁寧に聞いてみるしかないのですかね)

とはいえ、明らかになるまでの間、どうしても気になってしまいますよね…。

そんなときは、頭の中の「保留ボックス」に「部下がウツっぽい件」と書いた紙を入れるのをイメージするのだそうです。
(イメージだと難しい人もいると思うので、実際に空き箱などで保留ボックスを作り、紙に書いていれておくのでもいいかも、と私は思いました)

それをしないと、「自分のせいでは…」とモヤモヤし、責め続けてしまい、解決策も浮かばない、という不毛な状態になってしまいます。

事実が明らかになっていないうちから、勝手に自分を責め続けている人をヒマ人と呼びます。

引用元:堤久美子『超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方』光文社(2018)p.56

 
ヒマ人…グサッときました(汗)
私自身、ネガティブ解釈で自分責めしてしまうタイプです。

以前よく悩んでいたのは「同僚に挨拶したのに、返してもらえなかった→無視されたのかな?→私のこと嫌いなのでは?」とか。

まさに、事実と解釈が混同していますね。
事実は「挨拶したけれど、返してもらえなかった」だけ。

相手は単に気づかなかったのかもしれないし、眠かったのかもしれないし、体調が優れなかっただけかもしれないわけです。

しかし、ついネガティブに考える私は「あー、やっぱり私のこと嫌いなんだ」と思い込んでしまっていました。

すると、次に相手と接するときに、ぎこちなくなって、ますます距離があいてしまったりするんですよね。

「なぜ挨拶を返してくれなかったのですか?」と直に聞くのは現実的にちょっと難しいですが、頭の中の保留ボックスに「嫌われている可能性もゼロではない件」として入れておいて、冷静に様子を見る、というのがよいのかな、と思いました。
その後も無視が何度も続くのであれば、そっと遠ざかればいいわけで。


なお、この「解釈」は過去の記憶に基づいて行ってしまうもの。
過去のある時点ではそうだったのかもしれないけれど、今はそうではないかもしれない。

だからこそ、事実は何か、をひたすら問うべし。
事実が見えると、やるべきことも、見えてくる、というわけです。

アドラー心理学でいうところの「課題の分離」とも似ているような気がしますね。


事実と解釈が混ざっている状態から脱するには、日記を書くのも有効。
嫌でも自分を客観視せざるを得ないからです。


この日記とか日報の効果は、私自身もかなり実感しています。

以前は気持ちを綴った日記やノートなんて「万が一、見られたら恥ずかしくて無理」と思っていたのですが、数年前から記録だけのノートをつけ始めました。

何時に起きたかとか、何を食べたかとか、どんな作業をしたとか、をただ記録していた(それなら誰かに見られても、ギリギリ大丈夫、と当時は思っていた)のですが、続けているうちに気持ちを書くことにも抵抗がなくなりました。

今は何の抵抗もなく、ノートにモヤモヤを書きます。
紙面に書くだけで、本当に冷静になれるから不思議です。
書きながら「向こうが全面的に悪いと思っていたけれど…こうして客観視すると私も悪いほうに考えすぎていたな」などと思えて、本当に楽になります。

この感覚を一度味わうと、モヤモヤしたら「ノートに書いて整理したい!!!」となるようになりました。

慣れるまでは抵抗などもあったり、文章にすること自体が大変に感じるかもしれませんが、トライしているうちに自分に合ったやり方が見えてくると思います。

 

「どんな私として生きるか」は自分で決めることができる

 モノは、先に本質があってから、実物が存在します。

どういうことかというと、最初に「字を書くモノが欲しい」という本質があってから、ボールペンというものができた(実存する)わけです。

一方で人間の場合、先に存在があって、本質は後から作れる、とサルトルはいいます。

目的がありきで存在しているのではなく、まず先に存在があって(赤ちゃん)、その後何になるか(例:先生、警察官、エンジニア…etc)決めるわけです。

決めるのは職業に限ったことではなく、「どんな私」かも決めることができます。
例えば、「どんなときもビビらない屈強な僕」とか「奇跡を起こす僕」とか。

「どんな私で生きるか」を決めることは生きていく上での軸となり、困ったときや迷ったときにも、自分を導いてくれます。

例えば、大事な試合の肝心な場面で緊張してしまうという場合、「屈強な僕」だったらどうするか、というのを考えると、すべきことが見えてくるわけです。

試合のときだけ「屈強な僕」だったら…と考えても思いつかないかもしれませんから、普段から「屈強な僕」だったらどういう行動するかと考えたり、実際に行動したりするのも大事なのでしょうね。


私自身は、日常的な場面でも不安になってしまったり心配してしまうことが多いのですが、なぜか本番になるとコロッと大丈夫なタイプです。

よく考えてみると、子どもの頃「あなたは本番には強いね」と言われたことが何度かあり、また「何事もなく本番を終えられた」という経験を重ね、無意識のうちに「本番に強い私」という軸ができていたのかもしれない、と思いました。

「どんな自分」かは一つに限定する必要はないと私は思うので(多すぎても混乱しそうですが)、環境や年齢に応じて追加したりしていけばいいのかな、とも思いました。



誹謗中傷は見聞きしなければ「ない」

あなたが他人から見られていると意識する瞬間、それは「自分の評価を相手にゆだねた瞬間」でもあります。このとき、あなたは他有化されます。存在そのものが他人のものになるということです。

引用元:堤久美子『超解釈 サルトルの教え 人類最強の哲学者に学ぶ「自分の本質」のつくり方』光文社(2018)p.130


私は家庭環境の影響などもあり、他人の目をものすごく気にしてしまうところがあったのですが(だいぶ改善はしてきましたが)、上記引用部を読んで「存在そのものが他人のものになる、ってイヤだなー」と思いました。
他有化されてたまるもんか、と。

批判や否定にくじけそうになったときは、この言葉を思い出そうと思います。

 

おわりに

自分の本質を自分でつくる。

そのためのヒントや問いかけがちりばめられている本でした。

とにかく読みやすいので、サルトルの入り口としてはすごく適しているかな、と思います。

超解釈 サルトルの教え 堤久美子 | ノンフィクション、学芸 | 光文社