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大学生の頃、教養課程で哲学の授業を履修したことがあります。
確かハイデガーとか、哲人たちの思想を学ぶような内容だったり、幸福とは何かを考えたり。
しかし、そういった思想の類は、理系学部で実験に追われていた当時の自分とはかけ離れすぎていて、難しくてつまらないものに感じていました。
その後、いろんな経験をして、年齢を重ねていくうちに、哲学っておもしろいものなんだなー、と気づき始めます。
とはいえ、岩波文庫のような、「ザ・名著」みたいな本は読むだけでけっこう大変で、何日もかかったり、途中で飽きてきたりもします。
本書は、人生相談×哲学ということで、読みやすそうだったので手に取りました。
國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版(2013)
どんな本?
寄せられた相談メールに対し、著者が答えていくのですが、普通の人生相談とは少し違う気がしました。
「あなたのお悩みに対するアドバイスはコレ!」みたいなハッキリした解があるのではなく、相談者本人(+読者)に考えさせよう、という感じです。
相談者本人が自分で考えるために、ヒントとなる哲学的考え方や本を提示し、「ここのポイントについてよく考えてみてください」というような感じ(情報はメールの文面のみなので、情報量が不足してそうせざるを得ないケースもあるのでしょうが)。
もちろん相談に対し、わりとハッキリ答えているケースもあるのですが、考えさせる(本人にも、読者にも)場面が多い印象です。
若い頃なら「答えをはっきり示してほしい」ともどかしく思ったかもしれませんが、今はある程度自分で考えられるようになったのか、この形式はおもしろかったです。
目からうろこポイント
違和感は大切にしていい
「「自分に嘘をつく」とはどういうことなのでしょうか?」という質問(p.104)に対する返答の中で。
まず、人間には「情動」と「感情」がある(これに関してはアントニオ・ダマシオの『感じる脳』という本を紹介されています)。
情動:ある刺激に対する生体の反応そのもの
感情:心の中で意識される気持ち
身体の反射的な反応である「情動」がまずあって、そのあと「感情」がくる。
具体例をいえば、危険な目に遭ったとき、脈が速くなったりするのが「情動」で、怖いとかどうしようとか思ったりするのが「感情」なわけです。
そして「なんかおかしい」という違和感は「情動」である(と思われる)。
つまり、違和感は生体の反応なわけです。
この違和感の正体を「感情」によって精査することが大事なわけですが、ここに落とし穴が。
本来ならば「なんかおかしい(違和感)」→それを避ける、となるところを、人間の場合は「なんかおかしい(違和感)」→「おかしい気がするが、やらねばならない」などと考えてしまったりするんですね。
感情を入手したことにより、「情動」を無視したり、裏切ることもできるようになった。
これによって、自分に嘘をつくこともできるようになった、と著者は解説しています。
この違和感を無視する、という行為、私自身ものすごくやっていました。
「なんかおかしい」だけでなく「なんかイヤだな」「なんか落ち着かない」とか。
いずれもその正体をうまく説明することができず、まさに「なんか…」なのですけど、とにかく「なんとなくだが、良い感じはしない」系。
とはいえ、瞬時に説明できないので、これら「なんか…」シリーズは、単に自分がワガママなせいだろう、と思い込んでいました。
「なんか…」というあやふやな感覚よりも、「社会的にはこうあるべき、常識的にはこうすべき」を優先させねばならないと思い込んでいたのです。
その結果、いつもなんだか後悔している…。
「なんかイヤ」という感覚のまま「でも、こうすべき」と思って選択したことは全て失敗しました。人間関係、進路、仕事…etc
「なんかイヤ」の段階で、「何がひっかかっているのか?」ということを自分に問いかけることが大事だったのですよね。
「なんかイヤ」をもっと信頼してよかったのです。
いつから「違和感」を無視するようになったのだろう、と振り返ると、やはり親や周りの人の言葉が影響している気がします。
「それはわがまま」「逃げてるだけ」「社会じゃ通用しない」…。
しかし、他人がどう言おうと、自分の「違和感」を大切にせねばならない、と思いました。
自分の身体の反応なのですから。
他の人にはわからないものですから。
失敗からいろいろ学んだので、最近は違和感を感じたり、気が進まないとき、「ほんとうにこれでいいの?」と少し立ち止まることもできるようになってきました。
無意識のうちに、「違和感」を大切にしていたわけです。
生きることのつらさが、以前より断然軽くなりました。
運がいいとは
「知人が、客観的にみると不適切な判断をしようとしている。しかし、本人は聴く耳を持たずにいる。どう話せばよいか。」という相談があったのですが、そこで行われている運の良し悪しに関する考察がよかったです。
相談に対して著者は、自分にもそのような(これしかないと思い込んだ)経験がある。しかしその思い込みを、周囲からの指摘によって解除できた。それは「運が良かった」と述べています。
ここで、「運がいい」とはどういうことか、について考察しています。
先日、とある数学者の方から、「運がいい人というのは、心身で行っている計算の量が多いのかもしれない」という話を聞きました。
引用元:國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版(2013)p.133
具体的にどういうことかというと。
「運がいい」人は、これまで積み上げてきた厖大な情報処理に基づいて、無意識のうちに適切な選択をこれまた積み上げている。「運が悪い」人は、情報をできる限り排するようにして生きていて、計算結果を積み上げていないため、無意識のうちに行われている無数の選択の場面で利用できる情報のソースが乏しく、適切な選択が行えない。
引用元:國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版(2013)p.135
ここまでをまとめると、
運が良い人:情報処理能力が高い。膨大な情報を蓄積しており、適切な判断ができる。
運が悪い人:思い込みが強く、情報を取り入れようとしない。データが少ないので、適切な判断ができていない。
ということになるでしょうか。
これは納得できるな、と思いました。
例えば人工知能だって、入力する情報(経験則)が少ないよりも多いほうが、適切な判断を下せる可能性は高いですものね。
人間だって一つの考えにばかり固執しているよりも、多くのケースを知っていたほうが、(ある程度のバイアスがかかるとはいえ)その場その場でフレキシブルに対応できる確率は高そうです。
ただ、こうして両者を眺めてみると、情報処理能力には個人差があるし、どうしようもない部分もあるのではないか、とも思えますよね。
著者によれば
思い込みを排するぐらいのことは時間をかければできるでしょう。
引用元:國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』朝日新聞出版(2013)p.135
確かに、自分自身のことを振り返ってみると、思い込みが強いとき、意固地になっているときというのは、誰の話も入ってこないものです(むしろ、入れてなるものか、と思っている)。
視野はますます狭くなるし、焦燥感もあるし、確かにそんな状態では適切な判断など難しい。
思い込みを外し、いろんな意見が入るようにしておくって大事なのですね。
とはいえ、こちらをコントロールしようとして強めのアドバイス(を装ったコントロール)をしてくる人もいますから、全てを鵜呑みにするのではなく、様々な意見があることを知った上で、自分の本心も大事にしながら、選択していくというのが現実的なのかな、と思いました。
おわりに
「ああ、わかる、それ知りたい」という相談も多く、興味深く読みました。
よくあるお悩み解決型の本とも一味違って、考えさせられるところも多かったです。
かといって読みにくさもなく、新しい知見も得られたし、面白かったです。
朝日新聞出版 最新刊行物:書籍:哲学の先生と人生の話をしよう
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