AC回復のきろく

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

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親は選べないが、自分の未来は選べる |感想『親を殺したくなったら読む本』

 


他記事でも書いていますが、私は家族関係、とりわけ母との関係に悩んできました。

法的にも、現実的にも母と縁を切れないことに絶望してきました。
「親を殺したい」とまでは思わなくとも、「母の存在する世界から(自分が)消えたい」はずっと思ってきたことです。

紆余曲折の末、現在は母と距離をとることに成功し、おおむね平穏に暮らしていますが、親戚から母に関する苦情が入ったりすることもあります。

また、母は昔からセルフネグレクトぎみで身の回りのことができず、難病も抱えていますので、介護問題についても切実に頭を悩ませているところです。

疎遠にしているとはいえ、母の話題を親戚から聞かされると重い気持ちになったり、将来が憂鬱で目の前のことが手につかなくなったりもしますので、今以上に状況を良くするための情報はないか、という気持ちで読み進めました。

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)

親を殺したくなったら読む本 (親に疲れた症候群の治し方)

親を殺したくなったら読む本 (親に疲れた症候群の治し方)

 

 

 


どんな本?

著者は男性更年期障害を専門とするお医者さん。
「夫源病(夫が原因で妻が不調になる)」という言葉を生み出した方でもあります。

臨床経験や、アンケートをもとに、「親に疲れた症候群」について考察、解決策を提示した本です。

親子関係だけでなく、引きこもりや不登校など、家族全体の問題にも触れられています。

なお、「親に疲れた症候群」とは以下のような状態のこと。

この本を手にしたあなたは、親の存在を「うっとうしい」「早く死んでくれ」と感じながらも、親だけに無下に扱うことはできないと思い、親の希望や期待に応えようとして無理を重ね、身も心も疲れ果てていないだろうか?

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)P.3

 

 殺したいほどに親を疎ましく思ってしまう三大要因は「過干渉」「劣等感」「介護」だそうです。


要因① 過干渉(毒母問題)

著者のとったアンケートによれば(男性411人、女性396人、合計777人。うち85%が30代~50代。詳細は本書をご覧ください)、「親がいなくなればいい」と答えた人は、女性ではなんと半数近くにも上るのだとか。

「母親のせいで思うような人生を歩めなかった」という恨みを抱く女性も少なくない

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)P.50


私もまさにこれでした。
とにかく母の思い通りにしないと、母はある種の錯乱状態に陥ったり、私を何時間も無視したりするので、従わざるを得ませんでした。

母の過干渉(というよりは支配)がなければこうしたのに、ああしたのに、という後悔は無限に出てきます。

自分の意志で別のものを選択したからといって、それがすべてうまくいくとはもちろん思っていません。
母のおかげで結果を出せたことも多々あるでしょう。

けれど私にとっては、結果を出す(社会的に認められる)ことだけが大事なのではなくて、自分の意志で選ぶということが尊いことだったのです。

あまりにも自分の意志を封じ込められたため、その反動で、今の私は「とにかく自分の意志で決めたい」と少々頑なになっている部分があるかもしれないな、と自分で思うくらいです。


さて、この毒母問題、なぜ最近議論されるようになったかというと、子どもの数が減っていることに一因があるようです。

一人っ子、せいぜい二人きょうだいくらいだと、どうしても子に意識が向いて干渉が強めになりがち。
そこに「夫婦仲が悪い」という条件が加わると毒母になりやすいそうです。無意識のうちに、夫への不満を子で解消しようとするのですよね。

完全に我が家の状況です。
私は一人っ子ですし、物心ついたときから両親の仲は険悪でした。


また、母と娘は同性であることから、自分と同化して考えを押しつけがち。

私の母は劣等感が強かったので、「誰かに認められること」が最上の喜びでした。
「娘が他者にほめられる=自分の育て方がよい」なので、とにかく「娘が他人の目にどう映るか」ばかり気にしていました。

何かあればすぐ「世間が!世間が!」と騒ぎ、私の気持ちよりも「世間」という、定義さえあやふやなもの、が大事な人でした。

いえ、母にしてみれば娘の気持ちも大事にしているつもりだったのでしょう。
自分(母)は誰かにほめられることが嬉しい=娘もそうに決まっている
という構造が、母の中では何の疑いもなく成立していたのでしょう。

ほんのちょっとでも「娘にとっても本当に喜びなのか?」と立ち止まれれば、ここまでこじれることはなかったのでしょうが。

おそらく母は、失敗に終わった(と本人は思っている)若い頃の人生を、娘を通して再生させたくて必死だったのだろうと思います。

と母に同情する部分もゼロではないですが、その苦しさをすべて娘に解決させようとしたのは安易だったのでは、と思います。
本人の問題は、本人にしか解決できないのですから。

しかし、運動能力や体力に個人差があるのと同じで、思考能力や問題解決能力にも個人差がありますから、仕方ないといえば仕方ないのですが。


このように、親には親の事情があるわけですし、親を恨み続けるのは時間とエネルギーの無駄、と著者はいいます。

「許す」のは無理でも「あきらめる」、そして変えられるところを変えて、現状を少しでも楽にすることが大事

母親といるのが精神的にしんどいならば、母親と距離をとり、自分の負担にならない範囲で連絡をとればいい。会うのが嫌ならば交流を断ってもかまわない。

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)P.60

 

親と疎遠にするには、精神的にも経済的にも自立が必要となるので、難しい部分もあるかとは思います。

ですが、私は母と離れ、ただそれだけで人生が開けましたので、「いなくなれ」と日々怨念を募らせるくらいであれば、自分から離れるほうが得られるものは多いと思っています。

 


要因② 劣等感(父と息子の関係)

本書では、母娘問題だけでなく、父と息子の関係についても取り上げています。

モラハラ父も困りますが、立派な父を持つのも別の辛さがあるそうで。
父が立派だと、知らず知らずのうちに息子にプレッシャーがかかっていることがよくあるそうです。

男子の成長過程では精神的な「父親殺し」が必要

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)p.81


精神的な父親殺しというと殺伐としていますが、要するに「親を否定し、親を乗り越えていく」プロセスで、通過儀礼のようなもの。
反抗期って必要だからあるんですよね。
これに失敗すると、根深い劣等感や恨みにつながってしまうのだとか。
反抗もせず、ずっと「いい子」できた人のほうが危ない、というわけです。

私は娘の立場ですが、一人っ子ゆえ、長男として育てられたような部分もあるので、ちょっとその気持ちがわかるような気もするんです。

高校~大学時代にかけて、漠然と「父を越えねばならない」と思っていたことがありました。
今思えば、優秀であることを示せば、親や親戚から冷遇されなくて済む、もっと生きやすくなる、と思っていたからではないかと思います。

私の場合は、「父よりずっと優秀」というわけでも「父よりずっと出来が悪い」というわけでもない、ということを悟り、いつのまにか「まぁこんなもんか」という良い意味での諦めに落ち着きましたが。

父側が娘と張り合う気があまりなかったおかげで、戦わずに済んだ可能性もあります。

ですが、男同士だと闘争心などありますし、それこそ同性であるがゆえ考えを押しつけがちだったりして、こじれるのも予想できます。
(私の父も、滅多に会わない親戚の男の子にすぐ説教めいたことを言ったりするので、私が男だったらバトルになっていた可能性が高いです)


以下は、父息子関係に限らず、母娘関係にもいえることですが

親元を巣立ち、一人前の大人として自分の力で生きる姿を見せることが親孝行であり、親が望むとおりの生き方をすることが親孝行ではない。

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)p.86


でも、つい親の顔色を伺ってしまうんですよね。
だって、親に喜んでほしかったから。

でも、自分の気持ちって、想像以上に大事ですよね。
たとえ親が喜んだとしても、自分が喜べなかったら、次第に辛さのほうが勝るようになってしまいますから。


要因③ 介護

毒母やモラハラ父などでなくても、介護の期間が長くなれば、親を疎ましく思ってしまうことは当然あるでしょう。

私の祖母は10年近く寝たきりで、伯母がずっと看ていました。
私は当時小~中学生でしたので、大した手伝いもできませんでしたが、それでも疲れ果ててしまったのをよく覚えています。
先が見えないような、ただ労力を減らすだけで何も得られないような、精神的な疲れが大きかったです。
ただその場にいるだけでもこんなに疲労するのだから、これ以上の負担を毎日、何年も、となると、私にはとても勤まらないな、と強く思いましたし、大人になった今でもそう思っています。


著者によれば、つきっきりで介護するのは三ヶ月でよい、とのこと。
介護休暇は93日という事情がありますし、働き盛りのうちに離職するのはあまりにもリスクが高いからです。

日常生活で介助が必要になれば訪問介護サービスなどを利用しておいて、重度になったら三ヶ月ほど介護をし、その期間中に施設などを手配して、あとは施設に任せる、というスタンスでよいとのこと。

親を施設に預けることに抵抗がある方も多いと思いますが、お医者さんに「プロに任せてOK」と言ってもらえると、ちょっと安心しますよね。

また、施設というと、リーズナブルなところはいっぱいで入れない、それ以外はとんでもなくお高い、という感じがしますが、地方にまで候補を広げれば、選択肢はあるとのこと。


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その他 不登校や引きもこりについて

本書では、不登校や引きこもり、大人になってからの家庭内暴力などについても解説しています。

不登校、引きこもり、大人になってからの家庭内暴力なども親に過剰に気を遣い、無意識のうちに我慢を重ねてきてしまった結果

石蔵文信『親を殺したくなったら読む本「親に疲れた症候群の治し方」』マキノ出版(2015)p.119 

 

すべてのケースに当てはまるわけではないのかもしれませんが、わかる気がします。

私も子どもの頃、どうしても幼稚園に行きたくない日とか、どうしても小学校に行きたくない日、というのがありました。

そのときの状況を思い出してみると、普段親の機嫌をとったり、気を遣ったり、我慢していたので、知らず知らずのうちに疲れていたのだと思います。
そこに「だるい」とか「眠い」が加わったり、幼稚園や学校でのちょっとした嫌なことが重なったりすると、「行きたくない」が膨らんで、どうしようもないような、悲しい気持ちになっていました。

その大元を辿ると、「親に自分という人間を受け止めてほしい」という気持ちがあったと思います。

なので、行きたくない気持ちを(一切の否定なく)母が受け止めてくれていたら、それだけで気が済んだだろうと思います。

しかしながら子どもなので、自分の気持ちをうまく言語化することもできず(たとえ言語化できても私の母には理解できなかったでしょうが)、文字通り地面を引きずられて登校・登園させられました。

無理やり、幼稚園や学校に行かされるときの気持ちは「絶望」でした。
幼稚園や学校を嫌悪しての「絶望」ではなく、「自分の気持ちを母に理解してもらえなかった」という「絶望」です。

どれだけ主張しようとも、私の気持ちは理解してもらえない、と悟ったので、それ以降「学校に行きたくない」と私が言うことはありませんでした。
言うだけ無駄だからです。
結局は引きずられ、連れて行かれるからです。

母からすれば「自分の教育のおかげで娘は不登校を免れた、良かった」と思っていたでしょう。

目先の不登校は免れたかわりに、何十年後かに待っていたのは絶縁でしたが。

客観的には些細に見えるかもしれないけれど、私にとっては「絶望」を繰り返した結果が、今の母との関係(疎遠)なのです。

もし母に「とりあえず(理解はできないかもしれないけれど)娘の気持ちを理解しようと試みてみよう」という姿勢があり、私の気持ちに耳を傾けてくれていれば、ここまで不信感をつのらせることもなかっただろうな、と思います。


と、少々ヒートアップして自分の経験を綴ってしまいましたが、今現在お子さんの不登校などで悩んでいる方を責めるような内容になっていないか、少し心配もしております。

あくまで私という一個人が子どもの頃に思ったことを思い出して書いているに過ぎませんので、記憶違いなどもあるかもしれません。
人によって状況は全く異なりますし、体質的、精神的に、親にこそ言えない悩みを抱えている場合もあるでしょう。

どんなことであれ、「現状を(否定せず)受け止める」ということが大事なのかな、と思います。


ただし、引きこもりなども期間が長くなっていたりすると「きちんと線引きをする」なども大事になってくるそうです。

様々なケースに対する詳しい対処法については、ぜひ本書をご覧いただければ、と思います。


おわりに

ついついメディアの情報などに刷り込まれた「理想の家族」を追い求めてしまいがちですが、そんなものはない、家族は病んでいて当然、と著者はいいます。

「愛情」が具体的に何を指すかは人によって異なるわけですから、「愛情」で家族をくくること自体が日本人にはなじまない、とも。

「義務を果たしたらよし」くらいに考えるのがよいそうです。


お医者さんが臨床経験に基づいて書いている本ですので、決してきれいごとではなく、現実感があるところがよかったです。


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