※2018年5月に執筆した記事ですが、ブログの構成見直しに伴い、加筆修正、日付を変更して再更新しています。
もういい大人なのに、「どうしてこうも働くことが辛いんだろう。こんなことを思ってしまう私は子どもじみているのかな」と思っていた20代後半、地元の小さな書店で発見。
読めば読むほど「うちのことが書いてある!」と愕然とし、私が育った家庭は機能不全だったのだと気づかせてくれました。
私が私の人生を生きるための第一歩となった本です。
加藤諦三『「大人になりきれない人」の心理』(PHP出版・2008)
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どんな本?
本書では
あるところで心理的な成長が止まってしまった人:「五歳児の大人」
としています。
「五歳児の大人」は、身体も実年齢も立派な大人だけれども、心が幼児なので、社会に出て責任を負うことがとても辛い、ひいては、生きることが辛い、というわけです。
心理的な年齢は見た目ではわかりませんし、本人に自覚がない場合もあります。
私自身もこの本を読むまでは自覚がありませんでした。
ともあれ、心理的にではあっても、五歳児が社会で働くのは辛いに決まっています。
本書では、なぜ「五歳児の大人」が生じてしまうのか、自分が「五歳児の大人」だと気づいたら、どうしていけばいいのか、ということを解説しています。
「五歳児の大人」の特徴
では、”五歳児の大人”にはどういった特徴があるのでしょうか。
① 真面目で憎しみを持っている
② したいことをしていない
③ 協調性がない
五歳児の大人は、小さい頃からしたくないことを強制的にさせられてきているので、憎しみが生じています。自然に生きていると、その憎しみが表出してしまうので、あえて意識的に真面目にしてしまうのだそうです。
また、自分は強制的にイヤなことをさせられてきたので、したくないことをしない人を許せません(他人に対して厳しい)。
わ……わかる……(私も①~③すべて当てはまりました)。
私の場合は、「私がしたいこと」ではなくて、「母が子にさせたいこと」をさせられていました。
挙げれば本当にキリがないのですが、たとえば「うちの子は主役がやりたいんです」とすぐ幼稚園に乗り込んで行ってしまうとかひらがなを書き続けることのむなしさ(教育虐待のはじまり)とか。
意思というものをとにかく封じ込められた結果、見ないようにはしていたものの、確かに「強い憎しみ」が心の奥底にずっとありました。
その「強い憎しみ」がときどき噴出しそうになって、誰かを思い切り痛めつけたいような気分になることがあり、自分でも怖かったです。
また、自由に騒いでいる小さな子どもを見かけると、いまだに許せなかったりします。
頭ではよーくわかっているのですよ、「子どもは楽しく自由に遊ぶのが仕事」って。自分はできなくて辛かったのでなおさら思います。
それにも関わらず、自由気ままな子どもを目の前にすると、ほぼ反射的に「あの子は自由にしててずるい! 私は蹂躙されてきたのに!」という気持ちが沸いてしまい、見ず知らずの子はもちろん、友人の子どもにまで嫉妬してしまったりするのです。
まさに「心理的には五歳である」ということを自分でも実感せざるをえません。
小さな子どもと張り合ってしまうくらいなので、実年齢が大人であっても、「遊びたい」盛りなのでした。
ここでいう「遊びたい」は男女関係のそれではなく、まさに幼児の「遊びたい」です。心の底にある「遊びたい」欲求を抑えて、難しい仕事をせねばならないというのは、私にとっては本当に苦痛でした。
人それぞれ心理的な年齢が違うから、ある人にとってはなんてことない事も、別の人にとっては苦しかったりするのですね。
なぜ「五歳児の大人」が生じるか
先述した私の経験からもおおかた予想がつくかとは思いますが、なぜ五歳児の大人が生じるかというと、「母なるものへの願望が満たされない」からです。
人間は年齢によって、それぞれの時期にそれぞれ解決すべき課題と満足すべき欲求があると著者はいいます。
幼少期にまず満たすべきものは「母なるものへの願望」。
親から愛情をもらう。
私の感覚でいえば「ありのままの自分を受け止めてもらう」ということかと思います。
本書では「安らぎ」を得ること、と書かれています。
この「母なるものへの願望」が満たされないと、ある時期に心理的成長が止まってしまうのだそうです。
そして、「母なるもの」を手に入れようと執着するようになる。
実の親だけでなく、周囲のあらゆる人から満たしてもらおうと思うようになるのです。
具体的にいえば、チヤホヤしてほしいとか、手放しに褒めてほしいとか、まさに幼児が親に求めるようなことを、周囲の人にも求めてしまうのです。
しかし、実年齢が大人である以上、幼児的な願望をあからさまにすることはできないので、正論とか世間とか常識などを持ち出して相手にからんでいったりすることになるわけです。
意識的か無意識的かは別として、恋人に「母なるもの」を求めるというのもよくあるパターン(私も陥ったことがあります)。
それで、恋人が母親的役割をしてくれないと不服になってしまうのですよね(相手にも迷惑ですよね…反省)。
この「母なるものを求める」気持ち、愛されなければ愛されないほど強くなってしまいます。
すると人を愛することができなくなり、なかなか幸せになれません。
母親から愛されなかった者は、ガソリンの入っていない車でドライブを強要されているようなものである。
引用元:加藤諦三『「大人になりきれない人」の心理』(PHP出版・2008)p.144
これ、すごくわかるんです。
エネルギーを使い果たしてすでに枯渇しているのに、人よりもエネルギーを多く使わないと生きていけない。
だから生きるのが辛くてたまらないのです。
では、五歳児の大人はどう生きていったらよいのか。
長くなったので次の記事に続きます。
つづき➤愛情不足で育った人はどう生きていったらよいのか |『「大人になりきれない人」の心理』の感想②
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※2018年5月に執筆した記事ですが、ブログの構成見直・記事順変更のため、日付を変更して再更新しています。