子どもの頃から「どうしてこんなに生きるのが辛いのだろう」と思って生きてきました。
勉強は得意なほうだったし、友達もそれなりにいたし、学校に馴染めなかったわけでもない。
なのに、いつも心に鉄の蓋が乗せられているような感じがする。
「これを乗り越えれば楽になるはずだ」「大人になったら楽になるはずだ」と自分に言い聞かせ、苦しいことや辛いことを処理してきたけれど、いざ大人になってみたら、楽になるどころか、ますます苦しくなっている。
とりわけ「働く」ということが辛くて辛くて仕方がない。
小さな不満はあるにせよ、相対的にみれば、かなり良い条件で働けているはず。
なのにどうして私は「普通に働く」ことがこんなにも辛いのか。
周囲の人々もそれぞれ大変なことがあるのだろうけれども、私ほど辛そうな人はいないように見える。
どうしてだろう??
こんな私は、子どもじみているのか?
そんなことを考えて悶々としていたころ、この本に出会いました。
加藤諦三『「大人になりきれない人」の心理』(PHP出版・2008)
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、私はこの本を読んで人生が変わりました。
(もちろん、読むだけではなくて、必要な行動もとりました)
おかげで少しずつ人生を修正でき、十年くらいはかかりましたが、今は心が落ち着いて平穏で、たまに悩むことはあるけれど、なんだか嬉しくてほわっとした気持ちです(おそらくこれを幸せというのだろうなあと思います)。
この本以外にもいろんな方面からの影響があって、今の平穏な気持ちを得られているのだろうとは思いますが、この本は最初のきっかけを与えてくれました。
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どんな本?
本書では
あるところで心理的な成長が止まってしまった人:「五歳児の大人」
としています。
「五歳児の大人」は、身体も実年齢も立派な大人だけれども、心が幼児なので、社会に出て責任を負うことがとても辛い、ひいては、生きることが辛い、というわけです。
心理的な年齢は見た目ではわかりませんし、本人に自覚がない場合もあります。
私自身もこの本を読むまでは自覚がありませんでした。
ともあれ、心理的にではあっても、五歳児が社会で働くのは辛いに決まっています。
本書では、なぜ「五歳児の大人」が生じてしまうのか、自分が「五歳児の大人」だと気づいたら、どうしていけばいいのか、ということを解説しています。
なお、著者の加藤さんご自身も、育った家庭に不穏なところがあり、「五歳児の大人」の気持ちをよく理解されているので、言葉が驚くほど心に入り込んできます。
「そう、そう、本当にそうなんです!」と何度頷いたかわかりません。
一つのことを説明するにも、言葉を変えたり、何通りものたとえを出してくれるので、その人その人に響く箇所が必ずあると思います。
これらのポイントを踏まえつつ、私の経験も含めた感想を記していきます。
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五歳児の大人の特徴
では、五歳児の大人にはどういった特徴があるのでしょうか。
① 真面目で憎しみを持っている
② したいことをしていない
③ 協調性がない
五歳児の大人は、小さい頃からしたくないことを強制的にさせられてきているので、憎しみが生じています。自然に生きていると、その憎しみが表出してしまうので、あえて意識的に真面目にしてしまうのだそうです。
また、自分は強制的にイヤなことをさせられてきたので、したくないことをしない人を許せません(他人に対して厳しい)。
私も①~③すべて当てはまりました。
私の場合は、「私がしたいこと」ではなくて、「母がしたいこと」をさせられていました。
たとえば。
母は学歴コンプレックスがひどかったので、私は幼稚園に入る前から幼児教育の塾やら公文に行かされました。
しかし父のほうは「勉強なんて、本人がしたければするんだから、こんな小さいうちから無理にさせる必要はない」という考えの人だったので、いつも対立し揉めていました。
母の言うことを聞けば父の顔を立てられず、父の言うことを聞けば母に怒られたり何時間も無視されるというダブルバインドの状況でした。
あとは、幼稚園でのお遊戯会でやりたくもない役に立候補させられたり(母が勝手に園長先生に「うちの子はこれがやりたいんです」と言いに行ってしまったこともありました。あのときの担任の先生の困った顔が忘れられません…)。
今にして思えば一番酷かったなあと思うのは、同居している父方の祖母との接触を禁じられていたことです(隣の部屋にいるのに!)。
おそらく母は、祖母に私をとられるのではないかと心配だったのでしょう。
しかし、一緒に住んでいる人と喋れないどころか、顔も合わせられないのは辛かったです(祖母はそれなりに私のことを心配してくれていたので余計に)。
祖母と顔を合わせないよう、私は玄関を使わせてもらえず、窓から出入りさせられていました。
と、挙げれば本当にキリがないのですが、私は意思というものをとにかく封じ込められていました。だから、見ないようにはしていたものの、確かに「強い憎しみ」が心の奥底にずっとありました。
その「強い憎しみ」がときどき噴出しそうになって、誰かを思い切り痛めつけたいような気分になることがあり、自分でも怖かったです。
また、抑圧されてきたので、自由に騒いでいる小さな子どもを見かけると、いまだに許せなかったりします。
頭ではよーくわかっているのですよ、「子どもは楽しく自由に遊ぶのが仕事」って。自分はできなくて辛かったのでなおさら思います。
それにも関わらず、自由気ままな子どもを目の前にすると、ほぼ反射的に「あの子は自由にしててずるい! 私は蹂躙されてきたのに!」という気持ちが沸いてしまい、見ず知らずの子はもちろん、友人の子どもにまで嫉妬してしまったりするのです。
まさに「心理的には五歳である」ということを自分でも実感せざるをえません。
小さな子どもと張り合ってしまうくらいなので、実年齢が大人であっても、「遊びたい」盛りなのでした。
ここでいう「遊びたい」は男女関係のそれではなく、まさに幼児の「遊びたい」です。心の底にある「遊びたい」欲求を抑えて、仕事をせねばならないというのは、私にとっては本当に苦痛でした。
人それぞれ心理的な年齢が違うから、ある人にとってはなんてことない事も、別の人にとっては苦しかったりするのですね。
本書には、五歳児の大人の具体例がたくさん取り上げられていますので「もしかしたら自分もそうかも…」と思う方は読んでチェックしてみてください。
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なぜ五歳児の大人が生じるか
先述した私の経験からもおおかた予想がつくかとは思いますが、なぜ五歳児の大人が生じるかというと、「母なるものへの願望が満たされない」からです。
人間は年齢によって、それぞれの時期にそれぞれ解決すべき課題と満足すべき欲求があります。
しかし、この課題に向き合わず、また欲求を満たさないと、次の時代に挫折する、ということになってしまうわけです。
幼少期にまず満たすべきものは「母なるものへの願望」。
親から愛情をもらう。
私の感覚でいえば「ありのままの自分を受け止めてもらう」ということかと思います。
本書では「安らぎ」を得ること、と書かれています。
この「母なるものへの願望」が満たされないと、ある時期に心理的成長が止まってしまうのだそうです。
そして、「母なるもの」を手に入れようと執着するようになる。
実の親だけでなく、周囲のあらゆる人から満たしてもらおうと思うようになるのです。
具体的にいえば、チヤホヤしてほしいとか、手放しに褒めてほしいとか、まさに幼児が親に求めるようなことを、周囲の人にも求めてしまうのです。
しかし、実年齢が大人である以上、幼児的な願望をあからさまにすることはできないので、正論とか世間とか常識などを持ち出して相手にからんでいったりすることになるわけです。
意識的か無意識的かは別として、恋人に「母なるもの」を求めるというのもよくあるパターン(私も陥ったことがあります)。
それで、恋人が母親的役割をしてくれないと不服になってしまうのですよね(相手にも迷惑ですよね…反省)。
この「母なるものを求める」母親固着、愛されなければ愛されないほど強くなります。
しかも、母親固着が強いと、人を愛することができなくなり、なかなか幸せになれません。愛する能力があるからこそ、負担の多い生活も乗り越えられるわけですから。
母親から愛されなかった者は、ガソリンの入っていない車でドライブを強要されているようなものである。
引用元:加藤諦三『「大人になりきれない人」の心理』(PHP出版・2008)p.144
これ、すごくわかるんです。
エネルギーを使い果たしてすでに枯渇しているのに、人よりもエネルギーを多く使わないと生きていけない。
だから生きるのが辛くてたまらないのです。
では、五歳児の大人はどう生きていったらよいのか。
次の記事に続きます。