押しつけがましい人、強要的な人
当ブログでもいくつか記事を書いていますが、価値観などを押し付けてくる人、いますよね。
私の母や伯母は「子は所有物」と認識している人種のため、価値観の押しつけなんて当たり前でした。
外部のものごとに対して「どう感じるべきか」まで徹底的に押しつけられました。
たとえば、ピンク色が好きではない私に対して「ピンクが好きでないなんておかしい!!」という調子です。
父は「子は別人格」と理解してくれていたのでマシですが、「自分の正しさを証明したい」ようなふしがあり、強要的な面もあります。
私は「押しつけられるの、ほんとしんどい」と思いつつも、少しでも自分の意見を言おうものなら大炎上するので、つい黙って従ってしまいました。
両親が価値観を押し付け合って常に揉めているので、私まで揉めると、家の中が揉め事100%になるのが耐えられなかったんですよね。
正直な心の反応としては、「何もかも勝手に押しつけてくる親のことがしんどい、苦手」だったんですけど、それを認識してしまうと、「憎しみの中で生きていかざるを得ない状況」に直面・絶望するので、見ないようにしていました。
もちろん「親のことが嫌い」や「憎い」という感情を、ふとしたときに認識しそうになるのですけど、そのたびに「いやいやいやいや」と自分で振り払っていました。
だって、「親は大切にすべきものだから」と。
仕方がなかったけれど、誤りだったな、と思います。
表面上は親に従うしかないとしても、自分の正直な気持ちをせめて自分自身で認めておけばよかったと思うのです。
というのも、親への憎しみを抑圧した結果、私自身にも押しつけがましさが宿ってしまったから。
子供は、生き延びるために真実を避ける方法をさがす。それが抑圧である。抑圧行動とは、真実から身を守る行動なのである。しかし残念ながら、真実から完全に身を守る方法を人間は持たない。つまり抑圧された攻撃性は、自責と強要性となって再び現れてくる。
加藤諦三『自分にやさしく生きる心理学 やっとつかんだ私の人生』Kindle版 位置No.1115
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親と同じことをしてしまったことがある
「価値観や意見を押しつけられるの、しんどい」ということは私自身が嫌というほどよくわかっているので、できるだけ他人に押しつけたくない、と今は思っていますし、気をつけています。
それでも若い頃は、「(反省するレベルの)価値観押しつけ」をやってしまったことがあるんです。
たとえば、友人が何か困っているとき。
まず共感した上で「こうしてみたら?」と言うことはありますよね。
それ自体は悪くないと思います(明らかに相手がアドバイス等を求めていないときは何も言わないに限りますが)。
しかし「こうしてみたら?」に対して相手が「うーん、いいや」と言ったとき。
通常であれば「そっかー」で終わる話だと思います。
でも、当時の私は、「うーん、いいや」という返答にイラっとしてしまったんです。
なぜかというと、「こうしてみたら?」に対して「うーん、いいや」で私自身は許されたことがなかったから。
「うーん、いいや」と言うと、母や伯母は、それこそ油を注がれた火のように必死になって、言うことを聞かせようとしてくるんです。
私が「はい、そうします」と言うまで、一晩中でも説得しようとしてくるんです。
現実的に、「うーん、いいや」と断ることは不可能だったんです。
だからこそ、友人の「うーん、いいや」に腹が立ったんですね(一種の嫉妬)。
「うーん、いいや」程度で断れると思ってるの?と。
「うーん、いいや」で断れたら苦労しないよ?と。
知らしめてやらねばならん、と。
(我ながらおそろしい発想)
そこで少し頭を冷やす必要があったのですけど、当時の私は、友人を「説得」しようと躍起になってしまいました。
「こうしたほうが絶対いいから!」みたいな「あなたのため」トーンで。
(実際に、「あなたのため」と思い込んでいたようにも思います)
母や伯母と同じことを友人にしてしまいました。
そのときは結局、友人が折れてくれたのですが、ものすごくスッキリしたんです。
一種の達成感というか。
自分には力がある、と錯覚してしまった状態だったんでしょうね。
押しつけがましい人が、こちらが嫌がっているのになおも強い力で押しつけてくるのは、この「スッキリした感」、「自分には力がある感」を得たいからなんだ、と自分の経験を振り返って実感します。
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親に対する憎しみを抑圧し続けたことを反省
親にされて嫌だったのに、同じことを他人(特に自分より優しい人や弱い人)にしてしまう。
自分を小馬鹿にしてくるような人とは離れたほうがいい理由 でも書いたように、誰かから受けたストレスって、さらに弱いほうに向けてしまうのですよね。
でも本来は、親にされたことの恨みは親に向けるべきだったんです。
それができていなかった(抑圧していた)からこそ、弱い方に向けてしまったのです。
自分が実際に持っている憎しみの対象を恐れているから、それを抑圧し、正義の仮面をかぶって批判しやすいところを批判して攻撃的になる。弱い人間はどうしても卑怯になる。卑怯でありながら自分こそ道徳的で正しいと思っているのだから、批判されたほうは大迷惑なのである。
加藤諦三『自分にやさしく生きる心理学 やっとつかんだ私の人生』Kindle版 位置No.1175
ほんと、八つ当たりで攻撃されたり批判された人にとってみたら、大迷惑ですよね……。
まあ、子供からすると、親に嫌われたら生きていけないので、親への憎しみを抑圧してしまったこと自体は仕方なかったのだと思います。
それだけ子にとっては過酷な環境だったのだと思います。
ようやく今、親に対して持っていた憎しみを、きちんと自覚できるようになりました。
抑圧せずに、「あー、あのできごとはマジで理不尽だった。親クソ」くらいに思えるようになりました(すみません、言葉が悪いですが、このくらいしないと抑圧するクセが抜けきらないので、あえて書きました)。
よく、「いい歳して親のせいにするなんて……」とおっしゃる人がいます。
そういう方のおっしゃることも理解できるんです。
自分の問題を解決するのは自分自身ですから。
けれど、一旦「親クソ」の期間を経ないと、次に進めないんです。
抑圧する癖をとらないと、ずっと自分の気持ちをごまかすことになるんです。
すると、いつまで経っても苦しいままなんです。
とはいえ、いつまでも「親クソ」って言ってるだけで大丈夫なの? と思う方もいるでしょう。
あくまで私の経験ですが、「大丈夫っぽい」です。
「親クソ」をある程度思いっきりやると、次第に抑圧してきた憎しみが和らいできて、少し冷静になってくるんです。
すると、気づきも出てきました。
親もまた、その親から押しつけられてきた
本来向けるべき対象への憎しみを、自分より弱い方に向けてしまう。
子に意見を押しつけたり、支配する親たちもまた、成長過程で押しつけられてきたわけなんですよね。
先に書いた私の体験談のように、自分が押しつけられたからこそ、「ずるい!私は許されなかったのに!」と他人の自由を許せないんです。
親は祖父母から押しつけられ、祖父母は曾祖父母から……と遡っていくと、「特定の誰かが悪いわけでもない。そもそも人間の性質として弱肉強食のようなところがあるのだ」というようなことにたどり着きます。
するともう、「あーなんか仕方ないか……」という感じになってきますよね。
できればどこかで誰かが「こんなことは辛いからやめよう!」と気づいてくれたらよかったのに、とは思いますけど、戦争などもあったし、昔は生きること自体が今より大変だったでしょうから、それどころじゃなかったんですよね、きっと。
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おわりに
・押しつけがましい人、強要してくる人は、憎しみを抑圧している
・本来向けるべき対象に憎しみを向けていない
・抑え込まれた憎しみは、正義の仮面を被って登場する
・押しつけがましい人にならないためには自分の感情をごまかさないことがポイント
正義の仮面をかぶって、「べき」論で他人に強要的になったり、批判的になったりする人は、自分に正直になるよりも、そのほうが心理的にラクだからそのようにしているだけなのである。強要的、批判的「べき」論を展開する「道徳的な人」の隠れたる真の動機は憎しみである。
加藤諦三『自分にやさしく生きる心理学 やっとつかんだ私の人生』Kindle版 位置No.1180
参考文献
加藤諦三『自分にやさしく生きる心理学 やっとつかんだ私の人生』
ほかの記事
本記事とは視点が少し異なりますが、本質的なところは共通していると思います。
・ゴリ押ししてくる人は普段から不満がたまっているので、何かあったときに正義の形を借りて鬱憤を晴らす
・相手にダメージを与えることで自己効力感を感じている