親の呪いを解いて自分の人生を生きる

10年かかったけどなんとか回復してきた

罪悪感の大元には「愛されたい」が潜む |感想『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』

母と距離を置くようになってからもうすぐ8年が経ちます。

以来、明らかに苦しさが軽減したので、全く後悔はしていませんが、決断に至るまでは「親を捨てるなんて…」という罪悪感に押し潰されそうになったこともあります。

今では母に対する罪悪感は落ち着き、「自分の人生を生きるには、私にはこの選択しかなかった」と納得しています。

が、距離を置いたからといって「完全解決」というわけでもないのが家族の難しいところ。

母は、能力的に一人で暮らせない(昔からセルフネグレクトの気配があり、放っておくと数日でゴミ屋敷になります。現在は難病を患い身体が不自由なのでなおさら)ので、私が距離を置いた分、父や伯母に負担がかかってしまっているわけです。
ヘルパーさんもお願いしていますが、予算的に毎日とはいかない状況。

父や伯母に負担をかけていることを認識する度、(母に対してではなく、父や伯母に対しての)罪悪感がむくむくと湧いてきます。
父は母を嫌悪しており(私が物心ついた頃から不仲)、伯母は高齢なので、なおさら申し訳ない。


現実的な解決策としては、どうにかお金を捻出して母に施設に入ってもらうしかないのでしょう(母は「施設=姥捨て山」と思い込み断固拒否しているので、金銭的問題が解決してもどうなるかわかりませんが…)。

ただ、すぐにお金を工面できる状況ではないので、もう少し父や伯母の力を借りるしかないというのが現状。

母に対する罪悪感は薄れてきましたが、それに反比例して、父や伯母に対する罪悪感は大きくなっているように思います。

そんなとき、書店で見つけたのが
草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダの家族に悩んだ』海竜社(2016)

親子関係の本はだいぶ読んできたので、見知った内容かなーと心配したのですが、久しぶりに(自分的に)ヒットといいますか、読んでよかったです。

というのも、まさに今私が悩んでいる「罪悪感」について詳しく触れられていたから。

大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ

大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ

 

 

 

どんな本?

親子関係を解説した本は、基本的には心理学をベースに解説しているものが多いと思いますが、本書は、心理学は心理学でも「仏教心理学」というカテゴリーに属するかと思います。

ブッダの教えに端を発し、そこから2500年かけて発展してきた仏教思想の中から合理的な方法だけを抽出し、親子関係を捉え、解決法を考える内容となっています。

著者は、親子関係に悩む人たちからたくさん話を聞き、相談に乗ってこられた僧侶の方。
お坊さんだからといって、相談に乗るのがうまいかというと必ずしもそうではないと個人的には思っていますが、この著者(草薙さん)は相談者の話をよく聞き、かなり深く考えてこられたのではないか、と感じました。
表面的な知識を並べられているのではなく、こちらとしても納得感のある答えが得られます。

伝えたいことがありすぎて、本書の魅力をうまく伝えられるかわからない、と思いながらこの記事を書いています。


なぜ家族のことで悩むのか

家族の基本を考えてみると、「皆が平穏に暮らせること」です。
そこには苦しみはないはず。

にも関わらず、家族だからこそ、苦しみだらけだったりする。
それはなぜかというと、「業(ごう)」のせい。

業(ごう)は仏教用語ですが、平たく言い換えると「生涯にわたって繰り返す心のクセ」みたいなもの。具体的にいえば性格など。

※業とは前世のカルマ、という説明もありますが、本書ではその考え方は一旦置いておいて、あくまで「自分を駆り立てる心の働き」といった意味で使っています。

例えば、怒りの業(ごう)を持っている人だと、何かあったときに「怒り」で反応してしまいがち。
それを繰り返しているうちに人が離れていったり、人生がうまくいかなくなり、苦しみが募る、といったような負のスパイラルに陥るわけです。

ですので、まずは、自分の業(ごう)と、それに強く影響している親の業(ごう)を理解しよう、そして苦しみから抜ける方法を考えよう、というのが全体的な流れです。


本書には、親の業(ごう)を知るためのチェックリストが載っていました。
業(ごう)は7タイプに分類されますが、必ずしも1つとは限らず、「怒り+傲慢+決めつけ」など多岐に渡る場合も。

私の母の場合、7タイプ全てにあてはまりました。
さすがにこれには私もビックリしてしまいました(母は母で辛酸を舐めてきたのでしょうから、責めるつもりは今はないですが)。
父は父で、怒りや傲慢、決めつけといった業(ごう)があることもわかりました。

「こんな環境で私はよく生きてきたな」と思うと同時に、ゾッとするのは「自分もその業(ごう)を受け継いでいる可能性がある」ということです。
もちろん、反面教師的に「親のようにはなるまい」とたくさん修正してきたつもりですが、多少は残っているでしょう。

ただ、本書によれば、自分の業(ごう)を責める必要はなく、新しい「心の使い方」を学んでいこう、とのこと。
そうして心を解放しつつ、相手とどう関わるか考えていこう、といった感じでしょうかね。


よかったところ

罪悪感の正体

苦しみを抜けるにあたり、必ず立ちはだかるのが罪悪感。
しかし本書によれば

冷静に考えてみれば、そもそも罪悪感を持ってしまうような関係が、おかしいのです。

 引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.135

 

本当の「恩」「感謝」とは、「そう思わなければいけない」ものではなく、事実を正しく理解したときに自然に湧き上がってくる「実感」の言葉でなければいけません。

引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.140

 

言われてみればその通りですね。


また、本書では、罪悪感の正体をあきらかにしているのですが、それが私にとってはけっこう衝撃的でした。

<罪悪感の正体>
①愛されたいという願望
②満足させたいという欲求(①を満たすため)
③喜ばせたいという欲求
④「わたしのせいだ」という判断

罪悪感の大元には「愛されたい」がある!!
自身を振り返ってみると、まさにその通りだったと思います。

母は自分の面倒を見るのに精いっぱいで、とても私を愛することなどできる人ではありませんでした。
早々に「自分の親はそういう人だ」と、良い意味で諦めることができればよかったのですが、私は「私の努力が足りないからいけないのだ」と思い込み、本来の自分からは外れていくような努力をしてしまいました。

自分の気持ちは二の次で、親に認められるために勉強したり、親が喜ぶものを選んだり……。
ただ、自分の気持ちが疎かなので、努力が水泡に帰すことも多く、その度、「親の望むような子になれなくて申し訳ない」といった気持ちがありました。

まさに、①~④が混濁して「罪悪感」となっていますね。

幸か不幸か、私の母は毒が強く、近くにいると実害が甚大だったので、30歳手前で諦めがつき距離を置くことができましたが、罪悪感に苛まれて、親と距離を取れない方、たくさんいらっしゃると思います。
本書では罪悪感の手放し方についても、具体的に触れられていますのでぜひご参考になさってください。


ちなみに、現在の私が、父や伯母に対して感じている「罪悪感」、これにも「愛されたい」がしっかり含まれているな、と思いました。

父や伯母に負担をかけてしまっている

父や伯母は私に失望するのではないか

失望されたら「愛されたい」が満たされなくなってしまう

このような気持ちが潜んでいることを自覚しました。
私はいまだに「愛されたい」にかなり執着しているらしいのです。

父と伯母に対し「負担をかけてしまっている」と思うことは、一見相手を慮っているだけのように見えますが、実際は、私が私の「愛されたい」という欲求のために、罪悪感を生じさせていたのだと思います。

執着を手放して、心の自由を手に入れる

考えてみれば、人が感じる苦しみ――親への不満や、捨てたくても捨てきれない執着――の数々は、「愛がほしい」という根源的な欲求とつながっています。もし「愛されている」という実感が持てたら、多くの苦痛が癒されるはずです。

引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.216

 

どんな問題も、すべては元をたどれば「愛されたい」なのかもしれませんね。
ですが、実際には、表面的にでなく本当の意味で「愛されること」ってとても難しいからこそ、多くの人が悩んでいるのだろうと思います。

満たされない親の元に生まれてしまったら、もうどうしようもないじゃないか、とすら思いますよね(虐待の事件などを目にすると、本当にそう思います…)。

ですが、仏教が教える「愛」ならば、大人になってからでも、手に入れられる可能性があるのです。

仏教が教える愛とは

心が裁かれないこと――つまり、否定的な判断や評価を下されない・裁かれない状態。
心の自由が許されていること――感覚は感覚として、感情は感情として、そのまま肯定されること。たとえばおいしいときはおいしいと言える。楽しいときは楽しいと思える。そういう自由な状態でいられること。
○自分が考えることは、そのまま自分の考えとして、自分が欲することは、そのまま自分の欲求や願いとして、自分の思いが在ることを許されること

引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.216


つまり、子が親に対して抱くような「求める愛」とは別に、「心が完全に自由でいられること(ありのままに理解されること)」という形の愛もある、ということです。

この「心が自由でいられる」というのは、必ずしも他者を必要せず、自分で感じることができるところが素晴らしいなと思いました。
他者はコントロールできませんが、自分が「自由だ」と感じる状態にもっていきさえすれば、安らぎや満足を得られるわけですから。

そして、心の自由を感じて満たされていくうちに、「求めるほうの愛」を必要としなくなる可能性も大いにある。
「愛がほしい」と渇望しているときはとても辛いですから、それがなくなるだけでも随分と楽になりそうです。

この、仏教でいうところの「心が自由でいられる(ありのままでいられる)という形の愛もある」を知って、なんだか嬉しくなりました。
というのも、私が親に対して抱いてきた「愛されたい」を別の言葉で言い換えると「ありのままの私を受け止めてほしい」だったからです。
それが親にしてもらえず、私は自分をこじらせてしまったわけですが、だったら自分で自分のことをありのままに理解したらええじゃないか、と素直に思えました。

親に頼むのではなく、自分に頼めばよかったのです。

まぁ、これも、悩みまくった末の結論なので、子供の頃や若い頃に「自分で自分を受け止よう」と切り替えるのは難しかったでしょうが…。
ということは、悩みまくったことにも、ちゃんと意味があったということなのだろうな、と思います。


自分を批判するクセがしみついているうちは、なかなか自分の心を自由にできないものです。
本当にほんのちょっとずつでいいので、「自分の気持ちを大事にする」ということを積み重ねて積み重ねていくと、「心が自由」、つまりは仏教でいうところの「愛」にたどり着くのではないかと思います。

愛とは、相手の心を――感覚を、感情を、思いを、願いを――ありのままに理解して、けして否定しないこと。互いの心の自由を認め合える関係のことです。

引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.216

 

おわりに

いろんな本を読んできましたが、こじれにこじれた親子関係の場合、基本的には、相手とは(精神的にであれ、物理的にであれ)距離を置く、というのが基本のようです。
(それでも家族を続けてみようと思うなら続けてみるもよし、です。)

距離を置く、と決断できても、罪悪感やら執着やら、いろんな壁が生じます。
本書は、その壁を乗り越える考え方や具体的な方法が書いてある本でした。
特に罪悪感、仏教の教える愛に関する解説は非常に学ぶところがありました。


ブッダは王族に生まれたにも関わらず、親、妻、子を捨てて出家しています。
最澄も空海も親不孝者です。

その事実を知ると、少し勇気が湧いてくるような気がします。

わたしはわたしのために、わたしを肯定して生きていきます。

引用元:草薙龍瞬『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』p.154

 


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