『すぐ感情的になる人から傷つけられない本――身に迫る『困った感情』の毒から自分を守る』の感想記事その②です。
前回の記事では、
・怒りの素は「恐怖」
・「この人は何を恐れているんだろう」という視点を持ってみるといい
・対応のコツは理解はする(それは大変でしたね、等)が共感はしない
でした。
本記事では、「妬み」について学んだこと、および、その感想を述べていきます。
感想
バッシングとスポイリングの違い
「ねたみ」が不満感や低い自己肯定感からくる、というのはよく聞きますよね。
私自身も、母の支配下で自分が思うように行動できなかった頃は、自由に生きている(ように見える)人がうらやましくてうらやましくて仕方なかったですから。
口には出さなくても、「あの子は自由にできてずるい」なんて思ってましたからね。
この「ねたみ」から生じる言動、大別すると二つありまして。
「バッシング」と「スポイリング」です。
バッシングは、(相手の)評価を落とすのが目的。
これをやる人は、「自分自身のことを高く見積もっているわりに、他者からは思うような評価が得られない(と自分では思っている)」人なんだそう。
自分の思う評価と現実の評価にギャップがあるので、それを埋めるためにバッシングする(相手の評価を落とす)んですね。
上昇志向は強いのだけれども、上昇できない、という人なのだそう。
一方、スポイリングは、(相手に)低評価で留まり続けるように働きかけるのが目的。
このように書くと、バッシングとの違いがいまいちピンとこないかもしれません。
スポイリングをやる人は、「自己肯定感が低く、かつ、そのことをあきらめている」ような人、「どうせ自分なんか」とちょっと無気力になっている人。
このような人は、相手を自分と同じ位置までひきずり降ろして安心したい、ということなんだそうです。
何かを修得するために努力する人間には、「そんなことしてもムダだよ」とささやきかけ、意中の男性からデートに誘われて喜んでいる友人や同僚には、「遊ばれてるだけなんじゃないの」と疑心を吹き込み、ビッグなチャンスを与えられて意欲を燃やしている人間には、「いいように利用されるだけかもしれないよ」と不安を煽り立てます。
No.1698
これ!
まさに母が私にやっていたことなんです!
もちろん、あからさまな「批難」をされることもありましたが、「批難」とは違う形で「やる気を削がれる」ようなことが多々あって。
「そんなことしても何の得もないじゃない」
「あんた、利用されてるんじゃない?」
「そうやって調子に乗っていたら、いつか痛い目に遭うよ」
みたいなことを、こちらがやる気になっているときや、楽しんでいるときに限って「ポロっと」言うんですね。
「批難」のときの荒い口調とは違うので、やけにスッと入ってきてしまうんですよ。
冷水を浴びせられたような気がするというか、血の気がサッと引くような感覚に陥っていました(真に受けてしまった私にも問題があるのですが)。
あれは「スポイリング」だったんだなあ、と今になって合点がいきました。
「(自分と同じ)低評価」にとどまるよう仕向けて安心したかったんですね。
しかし一方で母は、「(勉強などに関しては)一番じゃないと許さない」みたいな面もあったので、子供としてはだいぶ混乱してしまったのですが。
いま思うのは、随分振り回されてしまったな、と。
母の「バッシング」や「スポイリング」に踊らされるのはバカらしかったな、と。
あれがなければ、私の人生はもう少し充実していたのだろうにな、と。
この体験から何が言えるかというと。
「バッシング」にしろ「スポイリング」にしろ、そういった行為をする人は、「自分のため」にやっているのですよね。
一見「正しさ」で偽装したりしているので、「こっちが悪いのかな」と惑わされてしまうんですが。
本心でいえば「自分(バッシングする人自身)のため」なんですよ。
自己評価と他者評価のギャップを埋めたいだけだったり、他者を低評価にして安心したいだけだったり。
そんな人のために、利用されるの、嫌ですよね。
(といっても、いざ、何か言われると大ダメージを受けてしまうんですけどね。)
人から何と言われようと、やりたいことはやる、ということですね。
(もちろん、法に触れたり、誰かに著しく迷惑をかけたりしないような範囲で、ですが)
おわりに
全体的な感想としては「なんとなく知っている」感じだったのですが(※)、「スポイリング」について詳しく知ることができたのは収穫でした。
(※)私が関連の本を読みすぎているせいかも。
私はわりと人の言葉を真に受けてしまうタイプなんですが、真に受ける前に「どういう意図があるのかな」と考えを巡らせるクセをつけたいと思いました。
(その場では無理でも、後で自分の中に取り入れるべき意見かどうかを見極めようかと)
広告