心を許せる友人がほしかった
そのときそのときを一緒に過ごすような友人はいても、「心を許せる人」「信頼できる人」がなかなかできない、と悩んできました。
育った家庭の影響で、「親すら信用できないのだから、他人なんてもっと信用できない」という思い込みが無意識のうちにあったことも影響しているとは思うのですが。
でも、ごくまれに「信頼できそう&仲良くなりたい人」が見つかっても、なぜか途中から気がひけてきてしまい、自分のほうからなんとなく離れてしまうのです。
そしていつしか、「あまり信用していない人」「そんなに好きではない人」となんとなく一緒にいるという状態に落ち着いてしまう。
そんなときは「あーあ、残念」と思いつつも、ちょっとだけホッとするんです。
そんなに好きでもない人であれば、もし嫌われたとしても、そこまで自分が傷つかなくて済むから。
その一方で、「仲良くなりたい人や好きな人に嫌われたら……
嫌われるまでいかずとも「価値なき者」とみなされたら……」
と想像してみると、もう辛くて辛くて再起不能になってしまうだろうと思うのでした。
冷静に考えてみると、人間関係は、基本的には相性の問題であり、私自身の「価値」とは直接は関係ないはずなんです。
でも、過去の私にとっては、「相手に好かれないのは、私という人間に価値がないからだ」と思い詰めてしまうのでした。
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「周囲に評価されなければあなたには価値がない」というメッセージ
「自分に価値がないから好かれない」という価値観の大元には、「母の機嫌を損ねると大変な目に遭った」という経験があると思います。
母は、「お宅の娘さん、すごいわね」と言われないと気が済まない人でした。
「お宅の娘さんよりも良い点数の子もいたわよ」なんて言われた日はもう、母は何時間もぐちぐちねちねちと私を攻撃するのでした(たとえ98点でも)。
つまり母は、間接的に「周囲から評価されなければおまえには価値がない」というメッセージを私に発していたんですね。
そして、そのメッセージを私は真面目に受け取ってしまった。
得意なことをやったりして、周囲から評価されているうちはいいんです。
でも、ちょっとうまくいかなくなると、途端に暗雲が立ち込める。
「私は価値なき者なのではないか??」という問いかけが、ひたすら自分の中から湧きだしてくるのです。
「私には価値がないのでは??」と不安になっているところに、だれか――とりわけ自分にとって重要だったり大切な人から「うん、あなたの価値、ないよ!」というメッセージを受け取ったとしたら。
もう、悲しすぎて生きていけないと思っていました。
だから私は、「あなたの価値、ないよ!」と感じうるシチュエーションをできる限り避けようとしました。
たとえば。
本当は自信なんて皆無なのに、あるように見せたり。
できないことをいかにもできる風に装ったり。
上から目線で誰かを見下してみたり。
「私には価値がないのでは?」という心もとなさを、うまく隠せているつもりでした。
でもたぶん、全然隠せていなかった。
むしろ、見る人が見れば、痛々しかったのではないかと思います。
しかも、隠せば隠すほど、よりいっそう、自分が自分に嘘をついているような苦しさで一杯でした。
人間が不安になるのは、自分に課せられた問題に立ち向かっていく時ではなく、それを避けようとする時ではないだろうか。
加藤諦三『自分にやさしく生きる やっとつかんだ私の人生』Kindle版No.1455
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自分の無価値感を隠すのに必死で、相手のことを見ていなかった
私は、劣等感を隠すのに必死で、相手のことを見ていなかったのです。
自分が価値がある人間かどうか、そのことにしか目が向いていなかったのです。
劣等感を隠すのに必死で、周囲が見えていなかったり上から目線になっている人と、親密になりたいかというと……どうでしょう。
今の私だったら嫌ですね(気持ちはわかるんですが……わかるだけに過去の自分を見ているようでツライ)。
劣等感を必死に隠すことで人に気に入られようとして、逆に人を遠ざけていたのだ、と今となってはわかります。
そりゃ、心を許せる友人もできないよなあ、と思います。
私に必要だったのは、「私には価値がないのでは?」から目を逸らすのではなく。
「私、自分の存在価値に不安があるんだなあ」ということ、そう思っているということを自分で素直に認めればよかったんだ、と改めて気づきました。
他人と心のふれあいを持つために何より必要なことは、まず自分が自分に正直になるということである。
加藤諦三『自分にやさしく生きる やっとつかんだ私の人生』Kindle版No.1478
他人の評価で自分の心を支えようとしたり、他人に好印象を与えようとしているだけでは、永遠に他人と心がふれあうことはない。
加藤諦三『自分にやさしく生きる やっとつかんだ私の人生』Kindle版No.1482
自分が自分に対して正直になることは地図上の現在地を確認することに似ていると思った
「私、自分の存在価値に不安があるんだなあ」と自分で正直に認めることができれば、「どうしてこうなったんだろう?」と考えることもできます。
私の場合は、母との関係に行き当たりました。
「周囲から評価されなければおまえには価値がない」が刷り込まれていたと気づきました。
でも、本当にそうなのか? 母の言うことは絶対的に”真”なのか?
いえ、おそらくは「母が、母自身の劣等感を癒すために、都合がよかっただけ」なのです。
周囲から評価されるということは、それだけ何か優れた点があるということですから、もちろん悪いことではないでしょう。
けれど、「周囲の評価がすべて」になってしまうと、自分のなかに「自分」がいなくなってしまうのです。
世の中にはいろんな意見がありますから、100%全員から褒められることは、現実的に無理なのです。
何を選んだとしても、何かしらは言われるものなのです。
だったら、どうせ何か言われるのだったら、せめて「自分が納得するもの」を選んだほうがいい。
そんなふうに、ふっきれるようになりました。
このように、自分に対して素直になるということは、「地図上で現在地を確かめる」ことに似ているなと思います。
立派な地図を持っていても、現在地がわからなければどの方向に進めばいいかわかりませんからね。
かつての私は、「地図の立派さ」にこだわり、遠くにみえる立派な建物に目がいき、肝心の、自分が今どこに立っているかがわかっていなかったのだと思います。
行きたい場所があるなら、ただ、現在地と行先までの道を確認すればいいだけだったのにね。
(道がないとか、落とし穴とか、工事中とか、えげつない坂だとか、人生にはいろいろあるにせよ)
まとめ
・心を許せる友人が欲しければ、まずは自分に正直になる
参考文献
加藤諦三『自分にやさしく生きる心理学 やっとつかんだ私の人生』
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