ししもとの読書ノート

自分らしく生きるために知識をつける

刷り込まれた価値観によって足を止められていないか? |省察『今すぐやれば幸運体質』

高嶋美里『「今すぐ!」やれば幸運体質』を読んで考えたことの記事です。

本記事では「すぐやる」にブレーキをかける要因の一つ「はみ出すのが怖い」について、考えていきます。


『「今すぐ!」やれば幸運体質』がどんな本か、全体を通じての感想は、前記事

をご覧ください。

 

踏み出せない理由の一つ:はみ出すことが怖い

同調圧力の強い日本では、「人と違っている(多数派でない)」というだけで、非難の対象になったりしますよね。

でも、よく考えてみると、全員が全員同じことをしていたのでは、社会としては困ると思うのです。

人と違う発想ができるからこそ、新しいものを生み出せたりしますからね。

人と違っていることは、ある面においては大事なことなのに、あまり歓迎されないのはなぜなのか、本書の引用をもとに考えていきたいと思います。


学校は会社に雇われて生活するのに適した常識を身につけるところ

人と違うことをするのが怖い、ということの背景には学校教育の存在があるのかもしれません。
 

日本ではほとんどの世帯がサラリーマンと言えるわけです。
そのため、日本の学校教育では、社会の歯車となる労働者を育成するためのカリキュラムが組まれています。
つまり私たちは、会社に雇われて生活していくのに適した常識を身につけながら現在まで生きてきているのです。

引用元:高嶋美里『「今すぐ」やれば幸運体質!』(同文館出版・2012)P.164

 

日本の学校教育カリキュラムは「社会の歯車となる労働者を育成するためのもの」!?

学校教育に息苦しさを感じながらも、うまく言語化できていなかったので、これを読んでハッとなりました。
同時に、「なるほど」とも思いました。


全部とは言い切れないにしても、学校教育の照準が「雇われて働くこと」に当てられているのは確かだと思います。
(人それぞれ性質も能力も違う以上、完全にカバーすることは不可能なので、ベースラインを多数派に合わせること自体は理に適っていると思います。)


学校は、「会社に雇われて生きていくのに適した常識を身につけるところ」だからこそ、落ちこぼれることは「社会から脱落すること(=生きていけない)」を暗に意味するのですよね。

だからこそ大人たちは、「自分の子が学校で落ちこぼれること」「はみ出すこと」に恐怖を覚えるのだろうと思います。

勉強に十分ついていけているのに過剰に心配したり。
不登校の子を無理やり登校させようとしたりとか、ね。

ひと昔前は、今よりももっと「一度ドロップアウトするとやり直しがきかない」的な風潮が実際に強かったので、仕方ないとは思うんですが。


けれども、この「学校でぜったい落ちこぼれてはいけない」みたいな雰囲気が、子どもの将来を狭めているのではないかと思うのです。

あえて強烈な言い方をすると「(雇われるにあたり)都合のいい人間になれ」というメッセージを押しつけているわけですからね。


「落ちこぼれてはいけない」
「せめて普通で」

このあたりのメッセージを言い換えると「みんなと同じだと安心」になるのだと思います。

「みんなと同じだと安心」を突き詰めると、「人と同じでなければならない」というちょっと切迫感のあるモードになる人もいるんだろうと思います。

そのモードではたしかに「人と違うことをやるのは怖い」ですよね。

また、「人と同じでなければならない」と思い込んでしまうと、人と違うことをやっている人、新しいことをやっている人のことが目につくようになります。

けれど心のどこかで、実は「自分も人と違うこともやってみたい」という気持ちを持っていたらどうなるでしょうか。

違うこと、新しいことをやっている人に対して「ずるい」という気持ちがわいてきますよね。
「ずるい」が強ければ、無意識のうちに、足を引っ張りたくもなるかもしれません。

それが一因となり、「出る杭は叩かれる」的な土壌ができたのではないかと考えます。

出る杭をたたく人こそ、自分の本当の気持ち、やりたいことに気づいていないのかもしれません。

他人に刷り込まれた価値観ーそれがあなたの人生を狂わせるのです。

引用元:高嶋美里『「今すぐ」やれば幸運体質!』(同文館出版・2012)P.166

 

親や周りの人が「良かれ」と思って伝えてきた価値観が足枷になっている、というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるのかもしれません。


それは刷り込まれた価値観ではないか?

「君たちは社会で(会社に雇われて)生活していくのに適した常識を身につけている最中だよ」と正直に説明してもらったほうが、頭ごなしに「常識なんだから従うべき」と押し付けられるよりもはるかに納得できた気がします。


もちろん、常識が大切なのもわかっているんです。
社会生活を送る上では、常識とか共通概念があったほうが便利ですからね。
結局のところ、ある程度必要だとは思うのです。


だけれども「常識は常識として存在するけれども、必ずしもそれが唯一絶対の解ではない」ということも教えてもらいたかった。
(まあ、そんなことを言うと、都合良く解釈して好き放題やる生徒がいるので、現場では難しいとは思うのですけれども)

自分の中で、少しでも違和感を感じる習慣や、嫌だけどそうしなければならない、といった決めごとがあれば、それは他人によって刷り込まれた他人の価値観である可能性が高いと言えるでしょう。

引用元:高嶋美里『「今すぐ」やれば幸運体質!』(同文館出版・2012)P.166



私は「いい子」だったので、「自分としてはAにしたいけれど、常識ではBが正解だから、Bをえらばなくちゃ」といつも自分の考えをねじ伏せていました。

本来の自分を出せていなかった感じです。

だからいつもモヤモヤしていました。
「本当はAなのに、仕方なくB」としていたのは、他人の価値観に振り回されていた証拠なんですね。

他人の価値観に振り回されることが続くと、自分にとっては「妥協の人生」になってしまいます。

妥協の人生を歩んでいると、どこかで行き止まりになります。

常識にしたがうことは「全面的に良いこと」のように教えられましたが、ただやみくもに従えばいいわけではなかったんですよね。

「常識」を主張してくる人だって、その人にとっての「常識」なだけで、こちらの価値観と一致するとは限りませんからね。

もちろん、常識に全面的に従うことが自分にとって「心地よい」のなら、それはそれで良いと思うのです。


常識では○○だけど、自分としてはどう思うか、どうしたいか、を立ち止まって冷静に見る必要がある。

最近になってやっと、そのことがわかってきました。



おわりに

私が学校に息苦しさを覚えていた、ということが何を意味していたか、ということを今になって振り返ってみると。

学校は「雇われて生きていく(会社員など)のに適した常識を身につけるところ」ですから、雇われる働き方は私には向いていない、ということだったんですよね。

親や親戚のプレッシャーもあって、一度は会社員になったものの、やっぱり辞めてしまいましたね。

若いうちから、「(常識とされることに対する)違和感」などにきちんと向き合っていれば、回り道をしなくて済んだのかな、と思います。

回り道は回り道で、体験できたこともありますけどね。
回り道を通るのにも、それなりに体力と気力を使いますからね。




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