足かせは外すことにした

親の呪いを解いて自分の人生を生きる

「自分自身が納得できるかどうか」を基準に選択したら幸福度が上がった話

草薙龍瞬『反応しない練習』を読みながら、自身を振り返っていたところ、気づきがあったので、記事にします。


ちなみに本書は
怒りや不安などの「ムダな反応」こそが人生のトラブルを招く。
ヘタに反応してしまう前に、自分の心の状態を見、目的がかなう考え方をしよう。
そのためにはどうしたらいいか、ということを教えてくれる本です。

これまでの感想記事はこちら。

反応してしまう前に心の様子を見る

悩みから解放されるには

上から目線が気になる理由

人間関係が億劫だったのは過干渉母の記憶が影響していた

 

人生を通して目指すのは「最高の納得」

”善”を求めて出家したブッダ。

ここでいう”善”とは「善しと思える心境」「すっきりと晴れた心の状態」を意味します。
言い換えると「自分自身が納得している状態」とも言えるでしょうか。

この「納得」こそが人生で目指す方向性だと著者はいいます。

人生は、心がけなどである程度良くなる部分もあると思いますが、完全にいいことだけ起こるようにするのはまず無理ですよね。

自然災害や疫病だってあるし、嫌な人に遭遇することもあるし、希望通りにならないことだって多々ある。

だからこそ、「自分自身が納得できるかどうか」が生き方の指標になるわけです。

「納得」というのは、主観的なものです。私たちが、自分に「よし」と思えれば、それで上がりです。それは「思い一つ」で達成できる以上、何歳になっても、どんな状況にあっても、得ることは可能です。

位置No.2112


自分が納得って、それって自己満足じゃないの? と思った方もいらっしゃるかもしれません。
私自身も、若い頃はそのように考えていたふしがあります。

けれど、選択基準を外に置いていると、ことあるごとにブレてしまうというか、いつまで経ってもうまくいかなかったんです。

「納得」を人生の方向性にすえるなら、あとは時間をかけて、近づいていけばよくなります。日々の仕事や家事も、「自身が納得できること」を基準にすれば、外の世界に振り回されることは減っていくでしょう。

位置No.2112


これは本当にその通りでした。

私は人生に行き詰まって以降、「自分がどう思うか」を重要視せざるを得なくなったわけなんですが。

「自分がどう思うか」を大事にしていたら、本当に幸福度が上がりました。

「幸福度」だと漠然としているし、人によって何が幸福かは異なるので、言い換えておくと、

不満タラタラだった私が、自分の人生にある程度満足できるようになった

という感じです。

詳しい経緯を以下に記します。


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「納得」を基準に選択したら、幸福度が上がった話(私の体験談)

当たりの入っていないくじを引き続けていた

私はずっと、「自分の外」に幸せがあると思っていました。

「幸せ」を具体的に言うと、根本的には「親に認められること」「親から愛されること」でした。

親が私のことを認め、愛してくれれば、私の心の焦りや枯渇感は消えるに違いない。

少なくとも「私、生きていていい……んだよね?」と常に周囲に確認したいような、ビクビクした気持ちはなくなるのだろう。

もし、「私、生きていていいんだ!」「私の人生は祝福されているんだ!」と思えたなら、どんなに生きやすくなるだろう、と思っていました。

だからこそ、大人になってもなお、親に認められたくてたまらなかった。

親に認められるために、いろんなことを頑張り、いろんなことを我慢してきました。
「自分」を封じ込めてきました。
だって、ありのままの「自分」では親に認められないのだから。

社会的にはそれなりの経歴を歩んでいたと思います。
親の期待にもそれなりに応えたつもりです。

でも、親は私のことを認める気はさらさらないようでした。
親の期待に応えれば応えるほど「もっともっと!」となるのです。

あるとき、頑張りすぎて心のエネルギーが完全に枯渇しました。
それでやっと、目が覚めました。

「こんなに頑張って努力して結果も出したのに認められないということは、この先私が親に認められることは絶対にないな」と。

当たりのないくじを延々と引き続けていたのだ、とようやく気づきました。
「むなしい」では言い表せないほどむなしかった。

同時に思いました。
自分のやりたいことをすべて我慢してきたの、バッカみたい、と。

「若いときの苦労は買ってでもしろ」なんて言うから、苦労したら何か得られるのかと思ったけれど、何も得られなかったじゃないか、と。

むしろ「あの人は苦労が好きなんだ」と思われて、嫌なことばかり押し付けられるじゃないか、と。

やーーーーめた。
もう嫌なこと全部、やーーーめた。


会社を辞めました。
母と連絡をとるのもやめました。

迷いは一切ありませんでした。
なんたって「当たりくじは入っていない」のですから。

「絶対嫌なもの」を排除して「納得できる選択」へ近づく

そこから少しずつ、「自分が納得のいくもの(選択肢)」を選ぶ練習……というよりは「絶対嫌なもの」を除外していく練習を始めました。

自我を抑えて生きてきたので、「こうしたい」という気持ちが自分でもわからず、消去法からスタートするしかなかったんですね。

「絶対嫌なもの」を排除するということは、最初のうちは「まだまだ心地よい状態まではいかないが、最悪の状態は脱せたかな」くらいのもの。

でも、次に取捨選択する場面では、すでに「絶対嫌なもの」を排除しているので「結構嫌なもの」を切っていけばいいんです。

その次は「我慢はできるけど、嫌なもの」を除いていく。

そうやって、取捨選択を繰り返していたら、次第に「納得のいくもの」を選べるようになってきました。


そうしたら。
いつのまにか、「(周囲の環境も含め)自分」に対して「わりと満足」と思えるようになっていました。


自分のことが嫌で気に入らなくて、死にたいと思いつめていたことさえあるのに、今は自分に対して「(好きまではいかなくても)悪くはない😊」とまで思えるようになったんですよ。


若さも、社会的な肩書も、今は何もありません。
それどころか、安泰と言われるような仕事ではないし、頼れる肉親はいないし、子供を持つつもりもないし、友達も少ない。

多数派の人たちからは「孤独」「かわいそう」「老後はどうするんだろう」と思われているでしょう。

それでも、「私はこれでいいや」と思えるのです。
自分史上で最も納得しているのです。


ただし、揺らぎも伴う

上のように書くと、いとも簡単に「納得基準」にシフトできたような感じがするかもしれません。

けれど、嫌なものを排除する過程で、実際は何度も揺らぎました。

事情を知らない人からすると「人生に失敗してしまった人」にも見えますし、見下したような態度で接してくる人もいます。

私にとっては「心から納得」のいく選択でも、「かわいそう」と決めつけてくる人には、どんなに説明しても通じません。

むしろ「強がっているんだね」などと受け取られ、余計に「かわいそう」に見られてしまいます。


心が自立していないときは、「かわいそう」「ダメな人」とみなされるのはやっぱり悲しかったです。

そして、「ほんとにこれでよかったのかな」と思ってしまうのです。
何度考え直しても「これしかない!」とはっきり言えるのに。

結局、親に認められることはやめられたけど、他人に認められることからはなかなか抜け出せなかったんですね。
今も残っていると思います。


それでも、「ほんとにこれでよかったのかな……でもこれしかないよな」を繰り返していくうちに、

自分が納得しているのに、他人の態度次第で「これでよかったのかな」と揺れるのって、ムダだな。

と思えるようになりました。

10年近くかかりましたけど。
いまだに「気の毒な人」目線を感じると、やっぱり多少は揺らぎますけどね(※)。

動揺しても、わりとすぐ元に戻るようになった(「ま、私はこれでいいんだ」と思える)、という感じです。

(※)
批判的な人に頻繁に接する環境だと、いくら自分が「納得基準」を目指しても、実際にシフトするのはけっこう難しいと思います。
その都度、揺らぐどころか、一気に引き戻されるからです。
私は思い切って、批判的な人(長年の友人含む)とは距離を置いてしまいました。


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おわりに

「自分が納得できるかどうか」を基準に選択したところ、人生の満足度が向上した、という実体験でした。

「自分が納得できるか」に重きを置いていますが、「社会的に認められること」を否定しているわけではありません。

社会的に認められるということは、非常に便利な面もあるからです。
肩書があったりすると、いろんな場面でスムーズに事が進みますからね。

結局、「自分にとって苦しみが少ない状態」を目指しつつ、バランスをとっていく、という感じなのかな、と思います。