過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。
浪人中、勉強ができないことに悩み、着ていく服が選べなくなり→とうとう予備校に行けなくなりました。
あまりにも苦しいので、「カウンセリングに行きたい」と言ったら母に「鬱の人は自分で鬱だとは言わないからあんたは甘え」「嫁に行けなくなるから精神科なんか絶対ダメ」と言われて保険証を隠された話です。
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母には何を言っても無駄だった
予備校に行けなくなった私ですが、怠けて行けなくなったわけではないのです。
むしろ、バリバリ勉強したかったのです。
でも、もう心が悲鳴を上げているというか、もうほんとうに手も足も一歩も出ないのです。
しかしそんな事情をあの母が理解できるわけがありません。
思えば子どものころから、どんなに学校に行きたくなかろうが、実力行使で連れて行かれました。
どう抵抗しても結局連れていかれるなら自分の足で歩いたほうが傷がつかなくてマシ、という徒労感。
あのときから何も変わっていませんでした。
本当にこの人は私の気持ちなどわからないのだな、と絶望しました。
だからといって、私とて、今回ばかりは「あきらめて予備校に行く」ことはできませんでした。それほどまでに体が動かず、限界だったのです。
その様子を見た父が「そこまで行きたくないのは何か理由があるんだろうから、もう行かなくていい」と言ってくれました(ちょっと怒ってはいたけれど)。
これには本当に助けられました。
父は性格的に難しいところはあるものの、「ほんとうにどうしようない」ようなときは、私のことを理解してくれました。
ひたすらロボットみたいな調子で考えを押し付けてくる母とはそこが違いました。
父がもし、母と同類の毒親であったなら、私はここまで生きられなかったでしょう。
息をする、ただそれだけのことが異常に苦しい
予備校に行かなくなって、少しホッとしたものの、陰鬱な気分は変わりません。
浪人生ですから他に居場所もなく、「予備校を休んでいるんだからせめて家で勉強しなくちゃ」という思いもあり、家にひきこもるしかできませんでした。
しかし、どうにも苦しくて苦しくてたまらないのです。
ただただ息をすること、それ自体がもう、苦しくてたまらないのです。
心臓や肺はきちんと機能しているはずなのに、息が苦しくて、窒息しそうなのです。
息が苦しいので、たくさん息を吸ってしまうのですけど、そうすると気が遠くなりそうな感じがするのです(過呼吸の一歩手前だったのかもしれません)。
さすがにこれはおかしい、と思いました。
身体は健康なはずなのに、こんなに息が苦しいのはおかしい。
おそらく、精神からきているのだろう、と。
あまりに苦しすぎるので、とにかくだれかに話を聞いてもらいたいと思いました。
もちろん、母や母の親戚はあてになりません(むしろ害)から、すがるような気持ちで「カウンセリングか精神科に行きたい」と言いました。
保険証を隠される
今思うと、あの母に許可をもらおうとすること自体が間違いだったのですが。
母は、目を三角にしてこう言いました。
「鬱の人は自分で鬱だなんて言わない。鬱の人は自分が鬱だってことを隠すんだから。それなのに自分から鬱だなんて言うアンタは甘え。鬱なんかじゃない」
「精神科なんか行ったら、嫁に行けなくなるから絶対ダメ」
今から20年近く前ですから、たしかにまだ精神科のハードルは高かったのは事実です。
それでも、こんなにも苦しそうにしている娘に向かって「病院に行くな」とは、「この人どうかしている」と思いました。
こんなに苦しがっている目の前の娘よりも、世間体のほうが大事なのか、と心底情けなく思いました。
しまいには、私が母にだまって勝手に精神科に行かないよう、保険証をどこかに隠してしまいました。
(当時の保険証は個人カードではなく、家族分まとめての記載してあり、それを母が管理していたので借りねばならなかったのです。
浪人生で、お金もなかったので、実費でというわけにもいきませんでした。)
心の底から絶望しました。
どれほどまでに人の気持ちがわからないのだろう、と。
自分の最も近くに、この世で最も信用できない人がいる、と思いました。
同じ屋根の下に、この世で最も信用できない人がいることは、悲劇でした。
これ以前のこと(子供のころの過干渉や教育虐待など)は、まだ時が経てば許せたかもしれません。
でも、この「死にそうなのに病院に行くことを阻止された」件は、どう考えても許せないと、いまでも思ってしまいます。
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【この体験から学ぶこと】
学習性無気力になっていた
この件に関しては、やはり母に問題があると今でも思っています。
ただ、私もあきらめが早かった、つまり「学習性無気力」の状態だったな、と今振り返れば思います(当時はそんな冷静さもなかったので仕方がないのですが)。
まず、一応は、父にも相談してみればよかったのです、精神科に行きたい、と。
すぐには理解されなかったかもしれませんが、ダメ元で言ってみればよかったのです。予備校を休むことだって父は許してくれたのですし。
でも、子供のころに(限定的ではありましたが)父に叩かれた記憶が残っているので、私にとっては父もまた恐怖の対象だったのです。
でも、父に言えないなら、ほかの大人(親戚とか以外)を頼ればよかったのです。
たとえば、高校時代の担任の先生。
「もう卒業したんだから迷惑はかけられない」と思っていましたが、とてもやさしい先生でしたので、親身になって話は聞いてくれたはず。
しかも教育のプロなのですから、ほかに精神を崩す生徒を見てきた経験もあるでしょう。
どこかの相談機関につなげてもらえたかもしれません。
あるいは、予備校のチューター。
「私は成績が悪いからきっとよく思われていない、予備校もビジネスなのだから、受かりそうな子だけが大事で、私のことはお荷物だろう」と勝手に思い込んでいましたが……生徒のケアも仕事のうちですし、それこそ対応マニュアルみたいなのもあったでしょうから、話してみればよかったのかもしれません。
しかし、当時の私は「勉強ができない私がすべて悪い」と100%思い込んでいました。
誰に相談しても「勉強しなかったあなたが悪い」のひとことで済ませられるのではないか、と思っていました。
また、「下手に母に連絡がいったら、また面倒なことになるぞ」という懸念もありました(それくらい親という存在に権力があった時代なので)。
人を頼れないなら本を読めばよかった
誰のことも信用できなくて相談できなかったのであれば、本でも読めばよかったなと後悔しています。
当ブログでも紹介している加藤諦三先生の本などはすでに出版されていたはずですし。
しかし、「浪人生なのだから勉強以外は我慢せねば」と自分を謎に追い込みすぎたことは私の誤りでした。
我慢や耐えることを「良いこと」と思っていたので、「これ以上人生を悪化させたくないからこそ、いいことを積み上げなくちゃ(我慢しなくちゃ)」と思っていたんですね。
あれから20年経って思います。
我慢が「良いこと」に結びついたことはひとつもなかったです。
母が私をコントロールするために「我慢=いいこと」として扱っただけなのです。
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