過去の痛みを成仏させるため、自分の育った家庭を改めて客観視する作業をしています。(関連記事一覧はこちら>>>【もくじ】いかにして私はアダルトチルドレンになっていったのか【体験談】)。
「公園に行く」と言われて到着したら予防接種だった、みたいな「だまして連れ出される」のは、子どもながらにイヤでした。
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「だまし討ち」的な連れ出し方
幼児のころ、私がすごく嫌だったのが、「だまし討ち的連れ出し方」をされることでした。
具体例を挙げると、子どもに「今日はいつもと違う公園に行く」と言われて、ものすごくワクワクしながら行ったときの、「実は予防接種だった」というやつ。
たしかに「今日注射行くよ」だと「えーやだー」となり、親としては大変なので、現実的には仕方がないことなのかもしれません。
うちの母に限らず一般的にどこの家庭でも行われている(?)のかもしれません。
でも私は「公園に遊びに行くぞ(るん)」みたいな感じからの「実は注射」は、「えっ!?話がちがう!!!」とかなりショックでした。
注射自体の恐怖云々よりも、「だまされた!」感がすごかったのです。
日頃から信頼関係を築けていなかった事情も大きいのだろうと思いますが、母に対してますます不信感を覚えました。
「あんたなんかこの程度でだませるでしょ」と見くびられている感じが嫌だった
「え!話がちがう!」となったとき、ショックを受けながらも、「まあたしかに、先に言われていたらわたしも抵抗してたからな……そうすること自体はわからなくもない」と、幼児でありながらなんとなく納得する部分はありました。
当時はもちろんこんなに言語化できませんでしたが、理解はできるけど納得はできない、という気分でした。
なぜ納得がいかないかというと、だまし討ちの向こうに透けて見える「この程度の嘘でだませるでしょ」という”見くびられている感”が嫌だったのだなと思います。
生意気なのかもしれませんが、「子どもだからという理由で、甘く見ないでほしい」という気持ちでした。
この体験から学ぶこと
小さな子どもにも敬意を持ちたいと思っている
子どものころは、「子どもである(弱者)」というだけで、理不尽な目に遭ってきました。
(同時に、子どもだから、と親切にしてくれた人もたくさんいたことも理解しています。)
子どもって、やっぱりけっこう大人の顔色をみているし、”わかっている”子も多いのですよね。
だから私は、「子どもだから」と見くびることなく、対等に接したいと思っています(私自身は子供をもつ予定はありませんが、趣味の習い事などで小さな子と接することもごくたまにあるので)。
もちろん「子どもだから」できないことは現実的にたくさんあるんです。
でも、それと、その子の存在価値は別というか。
「●●ができないからダメ」なのではなくて、「現実的にできないことは多々あるけれども、ひとつの確固たる人格である」というか。
とはいえ、私自身、子どもが苦手(最近ちょっとマシになってきたものの、自分の子ども時代を思い出して苦しい)なので、そううまくもいかないかもしれません。
それに、実際に育てている親御さんからすれば「そんなのきれいごと」に過ぎないかもしれませんし。
まあ、それでも、「自分がされて嫌だったことは人にやらない」の精神で、気を付けていきたいと思ったのでした。
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