
白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)より、印象にのこったところを記事にしています。
前半はこちら:📚『超訳 仏陀の言葉』|きみを生きよ。自分を生きよ。
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印象に残った言葉たち
強い風に向かって塵を投げつけたときのように…
人に対して怒るな。
自分のほうが正しいと思い込んで、誰かをそしるな。
人に腹を立て、その人が愚かだとか悪意に満ちているとか吹聴するな。
そんなことをすると、自分で災いを呼びよせてしまう。
あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように自分に不快なことが戻ってくる。
「サンユッタ・ニカーヤ」第Ⅶ編第1章
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.104)
「あたかも、強い風に向かって塵を投げつけたときのように不快が戻ってくる」
これ、すごくリアリティがありますよね。
怒りをぶつけると、怒りって戻ってくるんですよね、ほんとに。
私は怒りの多い環境で育ったので、「怒り」の発露、それ自体が悲しみだ、と思うようになりました。
あと、怒りって、実際に伝染する。
逆ギレという言葉があるように、怒っている人がいると、それにつられて新たな怒りが生じることありますよね。
だから私は人前では怒りたくない派ですが、後で一人になるとモヤモヤが湧いてくる。
怒りそのものが生じないレベルになれればいいのですが、なかなかそうもいかない。
下手すると、ただ怒りを抑え込んでいるだけになり、それは身体に悪いですよね。
だから今はノートに怒りやらモヤモヤを書いてなだめています。
すると冷静になり、なぜ怒りが生じるのかとか、相手が一方的に悪いのではなくて、自分の思考も偏っているのではないか、とか、様々な見方ができて少しマシになります。
これって瞑想に近いものがあるのではないかと最近思うようになりました。
これを繰り返していくうちに、怒りそのものが生じなくなっていくといいなーと思いますが……。
とはいえ、怒りにも大事な面があります。
自分にとって何が大切か、教えてくれてもいるわけですから。
必要だからこそ、怒りの感情はあるわけで。
ただ、それをやみくもに人にぶつけないということが大事なのだと思います。
怒りをぶつけるのではなくて「このように言われるのは不快なのでやめていただきたいのですが」などと冷静に伝えるのがよいのだろうと思います(難しいですし、通用する相手ばかりではないけれども)。
不運はどこからくるのか
不運から脱せよ。
不運はどこから来るのか。
望むものをすべて遠ざけ涙を運ぶ不運というものはどこから生じるのか。
だれか悪人が不運を持ち来たるのではない。
人を憎むとき、
あるいは、自分をののしり憎むとき、
不運は忽然と現れ、その激流で押し流すのだ。
「ダンマパダ」第15章
引用元:白取春彦『超訳 仏陀の言葉』(幻冬舎・2012年)(p.118)
若い頃は、不運はどうしようもできないと思い込んでいました。
だから不運に見舞われると絶望していました。
不運はどうしようもできないからこそ、人を憎み、自分をののしることしかできませんでした。
でも、現状を踏まえた上で、できることがある、と最近気づきました。
「不運だからどうしようもできない」と制限をかけているのは自分自身でした。
少し風向きが変わるだけで、楽になることもある。
今は不運に見舞われたとき「現状を踏まえた上で、どんな選択肢があるか」というのを考えるようにしています。
それで必ずしもうまくいくわけではありませんが、多くの出来事は事態を軽くできるのだということがわかってきました。
年齢を重ねることは、ただ老いることだと思っていましたが、精神的には成長できるのですね。
それが人生のおもしろさなのかな。
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おわりに
・怒りを人にぶつけると、自分に不快が戻ってくる
・人あるいは自分を憎むとき不運は現れる
(前半の記事)
参考文献
