加藤諦三氏の愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 PHP文庫を読みながら、学び、感想をまとめ、今後の生きる知恵をつけています。
本記事のポイント
・愛されないで育つと「与えること=損」と認識
→取り戻そうとしたり、恩着せがましくなってしまう
→周囲の人に好かれない
→愛情が必要なのに愛されなくなる
・不運ではあったけれども、どこかで自分をつくっていく努力が必要
→人にしてもらったことを軽く見ずに感謝する
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とても親切な人なのに……なんだか息苦しく感じるのはなぜだろう
とても親切で、行動力もある知人。
その人のおかげで助けられたこともあり、感謝しているのですが、たまになぜか、ちょっとだけ「うっ」となることがある。
そもそも”親切”ってとても難しくて、ニーズに合っていなければ「世話焼き」とか「仕切りたがり」とか、「ありがた迷惑」にさえになってしまう可能性をはらんでいますから、「そういうこともあるよね、でもプラスとして働くことだってあるんだし」と思ってきたのです。
けれど、どうしても、違和感がぬぐえなくなり。
この違和感はどこからくるのか、とじっくり考えてみたところ……次のような主張が染み出てくるのを、どうしても感じとってしまっていた。
(こっちはこれだけ面白い話しているんだから、そんなありきたりな話しないでよね)
(私が”良い”って言っているものなんだから、同じくらい良いと思ってよね)
(これだけしてあげてるのに、ちょっとお返しが少なくない?)
(私のこと好きなら全面的に賛同してよね)
実際に直接言われたわけでもないので、私自身が悪い方に考えてしまっている可能性もあるのですが。
「誰々さんのこういう行いが気に入らない」という主張しているのを聞くうちに、「あ、おそらく、私に対しても同じことを思ったことがあるのだろうな」と感じてしまって。
いくら相手が「賛同してよね」的な態度だったとしても、しっかり境界線が引けていれば、「あなたはそうなんだね~、でも私は私」と自己を保っていられるのでしょうが、私は境界が非常に脆弱(過干渉母の影響)なので、飲み込まれそうになって、危機感を覚えたのだと思います。
けれど、これは知人が悪いわけでもなくて、単に相対的な力関係の問題だとも思うのです。
私自身はどちらかというと支配されるケースのほうが多いですが、若い頃はうっかり気弱な人に強く出てしまったこともあり、根っこは同じなのだと思います。
支配したがる側もまた、愛情不足にあえいでいる人なのだと思うのです。
愛されないで育つと与えることを損と感じる
人間が精神的に成長するためには、愛されることが必要である。肉体の成長には酸素が必要なように、情緒の成熟には愛が必要である。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.36
愛されることなく利己的な大人になってしまった人は、相手に与えることを「損」と考える。どうしても打算的になってしまう。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.36
私自身も、与えることを「損」と思ってしまうことはよくあるので、とても耳が痛い……。
上で挙げた知人の場合も、先に与えてはいるものの、「与える=損」なので、無意識的にどこかで回収しようとしてしまうのだろうと思います。
で、それが態度や言葉の端々に現れてしまう→重くなる(せっかく与えたのにそれがパアになってしまっている)。
与えっぱなしではいられないという気持ちも非常によくわかるんです。
わかりつつも、「こないだのアレのお返し、まだ?」みたいに催促されている感じもまた苦しい。
その一方で、ごくまれかもしれませんが、与えっぱなしでも全然気にならないという人もいますよね。
親に愛されて育った人は、ことさら他人から、注目や絶対の愛を求めない。要求がましくもないし、相手にできることしか求めない。
従って人々に愛される。そのような人と一緒にいると楽しい。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.37
そう、健全な家庭で育った人って、いい意味で「自然」なんですよね。
何か褒めてくれるときも、本当に良いと思ったから言ってくれるだけで、「ここで機嫌取っといたほうがいいから」とか「ほめてもらいたいから先にほめとこう」みたいな邪心がないのがわかる。
だから、一緒にいていい意味でラクだし、話しかけやすい。
一方、何かしらの魂胆を抱えている人は、口では良いことを言いつつも、表情とか態度とかにわずかに苦痛?めいたいものが現れてしまいがちなので、どこかチグハグな印象を受ける(私自身もそういうところがあるのでものすごく自戒を込めて書いております)。
人間は愛されなかったがゆえに愛を必要とする。しかし愛を必要とするがゆえに人々から愛されなくなってしまう。
不幸な人は一生不幸でありつづける傾向にある、ということはこういうことである。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.36
愛情が欲しいからこそ「自分が自分が」になってしまう。
でも、他者は他者で、それぞれに事情があるので、思い通りに愛情を得られるでもない。
そして余計に「もっと欲しいもっと欲しい」と悪循環に陥っていく……。
愛されずに育ったことはとても不運なこと。
愛されなかった人が悪いわけではなく、たまたま未熟な親の元に生まれてしまった。
とても不幸なことだけれども……それでも、どこかで自分で切り替えなければならないと著者はいいます。
愛されなかった者にとって、たしかに愛することは難しい。しかし大人になって、どこかで自分で自分をつくっていく努力をはじめなければ、一生不幸で終ってしまう。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.39
人からしてもらったことを忘れず、感謝する
愛情が欲しくてさまよっているときって、「足りない足りない、もっともっと」となっているので、人から多少親切にしてもらったくらいではなかなか満たされないものです。
カラッカラの井戸にコップ一杯の水を入れても、せいぜい底が湿るくらいですぐに乾いてしまい、またすぐにカラカラ、みたいな。
だから、水をもらったことをほとんど覚えていない。
「なんだこんな少ないのか」と”なかったもの”としてカウントしてしまうことすらある……。
でも、よく考えたら、親でもない他人から、井戸が満ちるほどの水をもらうのはまあ現実的ではないですよね。それこそ24時間労働になってしまう。その人にはその人の生活もあるわけですし。
逆に、こちらにそれを「やれ」と言われたら……と考えるとその無理難題さがわかる。
だから、たとえコップ一杯であっても、きちんと認識して感謝することが大切。
愛されて育った人は、してもらったことは心にきざむ。しかししてあげたことは忘れがちである。愛されなかった人は逆である。してあげたことは石に刻んでいる。してもらったことは忘れて水に流している。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.38
愛されないで育った人は、人からしてもらったことに感謝することである。ことに親しい人からしてもらったことにもっと敏感になることが必要である。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.39
ああ、耳が痛いー。
最近はできるだけ「してもらったこと」の記録(※)をつけるようにしていて、多少はマシになってきたと思いますが……まだまだだなあ。
引き続き意識していこうと改めて思ったのでした。
(※)大それたことではなく、いつもの感じのいい店員さんがお会計してくれた、とかです。
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おわりに
・愛されないで育つと「与えること=損」と認識してしまう
→取り戻そうとしたり、恩着せがましくなってしまう
→周囲の人に好かれない
→愛情が必要なのに愛されなくなる
・不運ではあったけれども、どこかで自分をつくっていく努力が必要
→人にしてもらったことを軽く見ずに感謝する