親の呪いを解いて自分の人生を生きる

アダルトチルドレン回復の記録

不快に異常にとらわれてしまう一因→幼児期に不快を取り去ってくれる人がいなかった|『愛されなかった時どう生きるか』⑥

📕📗📘

加藤諦三氏の愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 PHP文庫を読みながら、学び、感想をまとめ、今後の生きる知恵をつけています。

本記事のポイント

・ふつうの人よりも不快・不安にとらわれてしまう原因の一つは、幼少期に不快を取り去ってくれる人がいなかったこと
 →自分で自分を守るしかないので自分にばかり目がいくようになる
 →防衛的&敏感に
 →挑戦しない
 →人生がつまらないものになりがち

・どうしたらいい?
 →心の成長の順番にしたがって取り戻していく。
「子どものころにやりたかったけれどできなかったこと」をやっていくなど。

広告- - - - - - - - - -

 



不快にとらわれてしまう理由

子どもの頃から「神経質」と言われてきました。
不安が高まりすぎて不安障害のようになったことも……

生まれながらの気質も大きいのだろうとは思うのですが、「それにしてもこんなに恐怖心がつよいのはなんで?」と、自分自身で不可解に感じる部分もあります。

現在は、生き方・暮らし方を整えてかなり楽になりましたが……それでもやっぱり電車やひとの多い場所は疲れてしまう。
なぜか「いつ命とられるかわからない」みたいな恐れがあるのです(確率的にまず大丈夫だとわかっているのに)。

著者によれば、幼児期における母親との関係に不安の源があるのではないか、とのこと。

  ただ拒絶を感じる。もちろん拒絶というかたちで感じるわけではない。不快感という感じ方であろう。しかし不快感があっても泣くことはできない。泣くとまた怒られる。また不快感から泣いても母親は自分の不快感をとりのぞいてくれるわけではない。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.89

「泣くとまた怒られる」→それな。

実体験:〈3才ころ〉体調不良→泣く→叩かれる→絶望

 

 普通の人以上に不快を質量ともに多く経験しながら、誰もそれをとりはらってくれなかった。もちろん自分ではどうすることもできない。
 それゆえに不快に対する恐怖は人一倍強い。ちょっと自分の体の一部に不快があると、それにとらわれてしまう人は、幼児の頃、母親に理解されなかった人ではなかろうか。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.89


体調不良の時こそ親に助けてもらえないというか、むしろ余計にひどい目に遭うと感じていました。もちろん、病院には連れて行ってもらったので外からみれば問題のない家庭ということになるのですが……

〈3才ころ〉人生で最初の記憶 - 自分の体調不良よりも親の機嫌を優先 

〈3-4才ころ〉お腹は痛いわ、母の機嫌は悪いわ、夫婦喧嘩は勃発するわでヘトヘト

〈4才ころ〉体調不良のときにドン引きされてトラウマに


親も余裕がなかったのだろうと今は思うのです。

けれど、子供にとっては体調不良の時にさらに怒られたり、引かれたりすると、もう本当に追い詰められる気持ちだったんですよね。
そもそも体調が悪いので、本気で命がどうなるかわからないというか。

今はもういい大人なので、基本は自分で対処できるはず(というか実際健康に生きているし)なのですが、あの頃のものすごい恐怖感は残ってしまっています。

だからいまだに体調不良を異常に恐れていますし、人前で体調不良になりたくなさすぎるので、体調不良になりそうなシチュエーションを徹底的に避けてしまうのです。

 不快に対する無力感、これが不安の本質ではないだろうか。神経質な人が不安に対して敏感であるのは、このためであるのではないだろうか。不快であったらもうどうしようもない。そうしたことが幼児の頃からしみ込んでいる。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.89

 

誰も守ってくれない→自分のことしか考えられなくなる

不安や不快に対する恐怖が強すぎると、社会生活を送るのもひと苦労となります。
何をしていても気を張って疲れるので、楽しめませんし、それがなんとなく周囲に伝わり、人とも打ち解けにくい。

幼児の頃、自分をどう守っていいか分からなくて不安であった。自分を守る力がないのに自分を守ろうとする、それが我執であろう。我執の人は幼児の頃の不安を引きずっているのである。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.90

私自身もですけど、やたら防衛的な人は、小さい頃に親に寄り添ってもらえなかったんですよね。

自分でなんとかするしかなったので、事前に対処するというか……。
おおごとになる前に撤退しておく、みたいな。
危ないことは最初からやらないでおく、みたいな。
だって、命の危機に陥っても誰も助けてくれないんですもの。

となると、やらないことが正解になってしまう。

幼児のうちは、それがある意味正解だったのかもしれません。
でも、大人になって、自分で解決する力がついているのに、恐怖心は幼児の頃のままなので、相変わらず防衛的になってしまう。

そうこうしているうちに、何にも挑戦できなくなって、人生がつまらないものになっていく。

視野狭窄に陥っていることは自分でもなんとなくわかるんですが、それ以上に、身体が覚えている恐怖感が絶大で、動けないのですよね。

順を追って取り戻していこう

 今まで他人に対して自分を守ることばかり考えてきたのではないか。しかしそれで何か得ることがあっただろうか、守れたであろうか、何も守れなかったのではないか。
 それよりも自分の心の底に眼をむけ、人生の当たりまえの順序に従って生きようとすることである。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.103₋104

「しかしそれで何か得ることがあっただろうか」→グサァッ!
た…たしかに……むしろ失ったもののほうが多い気がするぞ……。

じゃあどうするか、というと、心の成長には順番があるので、それに従って取り戻していこう、ということ。

理想を言えば「親に思い切り甘える」ことをやり直したいところですが、それは相手(カウンセラー、パートナー、心理的に成熟した友人など)を必要とするので、けっこうハードルが高いと思います。

なので、まず先におすすめするのは「子どものころにやりたかったけれどできなかったことをやる」ということですね。

この年で、泥あそびなど恥しくて出来ないなどと思う必要はない。小学生と同じことをして遊ぶのである。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.103


この、「やりたかったけどできなかったことを取り戻す」は、精神科医岡田尊司氏の愛着障害~子ども時代を引きずる人々~ (光文社新書)でも書かれていますし、私自身も実施してみて満足感を感じていることの一つです。

www.shishimoto-yuima.work


私の場合は、子どもが着るような服を着てみたり、小学生にまじって習い事すらしました。
さすがに、本物の小学生みたいに無邪気に100%楽しめるわけではないと思うのですが、満足感は確実にありました。

一つ一つは大したことでなくても、積み重なるとけっこうな威力になっていくと思います。

広告- - - - - - - - - -

 



おわりに

・ふつうの人よりも不快・不安にとらわれてしまう原因の一つは、幼少期に不快を取り去ってくれる人がいなかったこと
 →自分で自分を守るしかないので自分にばかり目がいくようになる(他人を慮る余裕がない)
 →防衛的&敏感にならざるを得ない
 →挑戦しづらいので人生がつまらないものになりがち

・どうしたらいい?
 →心の成長の順番にしたがって取り戻していく。具体的には「子どものころにやりたかったけれどできなかったこと」をやっていくなど。

参考文献

※本記事で参照した書籍は単行本のほうなのですが、リンクがなかったので文庫版のリンクを貼っています。

愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 PHP文庫