加藤諦三氏の愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 PHP文庫を読みながら、学び、感想をまとめ、今後の生きる知恵をつけています。
本記事のポイント
・親の期待に沿えなかった、という罪悪感は、一見、良心から発出しているように思えますが、その実体は「恐れ」「依存心」
・「依存心」を言い換えるなら、自分で自分を幸せにする決意が足りなくて、人に幸せにしてもらおうと思っていることのあらわれ。
(※絶縁直後など、罪悪感が強い状態の方には厳しすぎるので、そういう方はこの考えは一旦スルーしてOKです。どんなことも、いきなり達人級にできるようになるわけではないのと同じで、心理的なことも段階があります。受け入れられないことを無理に受け入れようとすると苦しくて逆効果と感じます。気が楽になる記事を先に、今は読んでいただければと思います)
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毒親育ちあるあるー罪悪感
私自身、この人生を振り返ってみると、ほぼほぼ罪悪感とのたたかいでした。
若い頃はとくに「親の期待に沿えなくて申し訳ない」「すばらしい人間になれなくてふがいない」こればっかりでした。
”親に認められたい”が優先なので、成人してもなお、「これをやったら……親はあんまり気に入らないだろうな……やめといたほうがいいかな」といつもいつも踏み出せませんでした。
”理想通りの娘”になれないことに対する罪悪感を抱えつつ、「自分の意志に従って選択することができない」ことに対する膨大な怒りも、同時に抱えることになりました。
最終的に、怒りのほうが限界を超え、母と絶縁しました。
しかし、母と距離を置いてもなお、罪悪感は私につきまといました。
そう、次は「親を捨てるなんて……」の罪悪感です。
「あれはダメこれはダメ」の干渉、監視の目からは解放されたので、もちろん断然生きやすくはなりましたが、今度は「親を捨てたひどい私」としての罪悪感です。
こうした罪悪感の厄介なところは、人生を楽しんでいるときこそふと顔を出して、私の背中をゾッとさせるところ。
「私は親を捨てるほどのひどい人間なのに、こんなのんきに生きていていいのだろうか」と悪夢で目が覚めるような。
そして「絶縁してもなお、私を苦しめるのか」と親に対する憎悪がまた募るのです。
私に限らず、このブログにメッセージを下さる方からも「罪悪感に対する悩み」はよく聞かれる話で、機能不全家庭で育った方には共通するように思われます。
書籍によっては「罪悪感はどうしようもないので、必要経費と思え」と書いているものもあり、実際問題、なかなか扱いが難しいのではと思います。
私自身もほとんど解消できない感じのまま、なんとなく共存してきましたが、本書を読んでいてハッとなりました。
罪悪感の正体
たとえば、親であれ誰であれ、あなたは或る人から悪く思われることを恐れている。そして自分を抑圧する。その人に心理的に依存しているからその人に嫌われるのがこわい。
そこであなたは自分のなかの敵意を抑圧する。あなたは自分のなかの攻撃性を恐れる。そして自分のなかの攻撃性を自覚すれば、それに罪悪感をおぼえる。それだけのことである。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.201
つまり、罪悪感とはただの「恐れ」である、と。
心理的に依存しているからこそ、その人に嫌われるのが怖いのだ、と。
うう……一理あって、グサッときます……
でもまあ、子どもの頃は「親に嫌われる=ほぼ死」でしたから、そうなるのも仕方がないのですよね。
大人になれば、親に嫌われても「死にはしないだろう」というのは頭ではわかっている。でも、「いつ刃物で襲い掛かってくるかわからない」みたいな疑いの気持ちもあるんですよね……親を信用していないから。
そういう戦闘系の親でなかったとしても。
嫌われたら心が死にそうというか……いても立ってもいられないような落ち着かない気持ちになりますよね。
➤しかしこれこそが「依存心」なわけですね……。
私の場合、長年のクセで、「親に評価されること」がそのまま「自己評価」に直結してしまっています。
だから「親が喜んでくれる・機嫌がいい」だと「私は生きていていいんだ」と思える。
一方で、親の機嫌が悪かったりすると、「私には生きている価値がない」に結びつき……生存に不安を覚えるんですよね。
絶縁したらしたで、「評価軸」を失ったわけなので、認められることで「生きていていいんだ」とも思いにくくもなるわけです。
あるいは親の代わりに「好きな人」や「尊敬している人」からの評価が「生きている価値がある/ない(=自己肯定感)」に影響するようになってしまうこともあるでしょう。
相手が誰であれ、「生殺与奪の権利」を他人に勝手に与えてしまっているわけなんですよね。
勝手に全権を委ねておいて、「あなたが評価してくれないのなら私の人生意味ない」みたいになっても、相手からしても……まあ、困りますよね(反省)。
あなたの罪悪感は恐れにすぎない。それは他人への依存心のあらわれにすぎない。真の意味において良心的でもなんでもない。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.201
罪悪感は他人への依存心のあらわれ……。
たしかにまだ、自分で自分を幸せにする決意が足りなくて、人に幸せにしてもらおうと思っているのかもしれません。
じゃあどうしたらいいんだい?
断固としてノーと言うことである。あなたはノーと言うことに罪悪感をおぼえる。しかしさきにも書いたとおり、それこそが、あなたの依存心のあらわれである。欺瞞的な人々のあいだで育ってきたあなたの罪悪感や良心などそんな立派なものではない。
加藤諦三「愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学」PHP(1989)p.208
・とにかく不当な要求にノーと言う
・不当な要求をしてくる人々との関係を断つ
これがまずは第一段階。
傷口をふさごうとしても、つねに毒にさらされていればますます悪化しますので、毒を断つ必要はたしかにありますね。
で、これができたらどうするかというと、以前の記事でも書いていますが、「自己受容できている人とつきあう」というのがひとつ。
愛情不足で育ったひとがつき合うべき「自己受容している人」の特徴3つ
とはいえ、「そんな人見つからないよ」という場合もあると思います。
特に機能不全家族で育っていると、親と似たような人とばかり接点が生じてしまうし、人を見る目も養えていないことが多いので。
そういった場合は、自分でできる、以下の流れもおすすめです(別の書籍の記事ですが)。
愛着障害克服のポイント(1)安全基地をもつ(ブログもけっこうおすすめ)
(3)悪いほうに考えすぎるのをやめるために自分なりの役割をもつ
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おわりに
親の期待に沿えなかった、という罪悪感。
一見、良心から発出しているように思えますが、その実体は「恐れ」「依存心」ということでした。
「依存心」を言い換えるなら、自分で自分を幸せにする決意が足りなくて、人に幸せにしてもらおうと思っていることのあらわれ。
私自身もたしかにまだそういう面があるな、とおおいに反省しました……。
まだまだ、人からもらおうとしていた。
これがまさに「小さいころに得られなかったものに執着してしまう」ということなんでしょう。
だから、仕方ない面もあるけれども、ここで気づいたのだから、今後は気をつけていけたらなあ、と思います。
罪悪感が出たり、自己憐憫の方向に走りそうになったら「自分で自分を幸せにするにはどうしたらいいか」という視点に切り替えるようにします(←宣言しておかないとすぐ元に戻るので汗)。
参考文献
愛されなかった時どう生きるか 甘えと劣等感の心理学 PHP文庫
※本記事に記載のページ数は単行本のものなので、文庫版とは対応しておりません。ご容赦ください。
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